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JPモルガン・チェース
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2.歴史
2.2.JPモルガン
ロン・チャーナウの手による伝記が有名である(『モルガン家』 日本経済新聞社 1993年)。

ロスチャイルドの支援[編集]


マサチューセッツ州出身のジョージ・ピーボディは、ロンドン在住中にロスチャイルド家から支援を受け、ジョージ・ピーボディ&カンパニーを設立し金融業を始めた。当初は米国債イギリス投資家に仲介するのが主な業務だった。このとき共同経営者として迎え入れられたのがジニーアス・スペンサー・モルガンであった。

のちにモルガンが代表を引き継ぎ、社名はJ. S. モルガン&カンパニーとなった。

J・S・モルガンの息子であるジョン・ピアポント・モルガン(J・P・モルガン)は、マーチャント・バンカーであった父の事業を米国内で広げ、1871年にJP モルガンの前身となるドレクセル・モルガン&カンパニー(Drexel, Morgan & Co.)をフィラデルフィアの銀行家、アンソニー・J・ドレクセルと共同でニューヨークに設立した。ドレクセルの死後、1895年にドレクセル・モルガン&カンパニーはJ.P. モルガン&カンパニー(J.P. Morgan & Company)となる。JPMはアンドリュー・カーネギーほか米国内の鉄鋼会社を買収し、USスチール社を設立し業界を再編。世界初の時価総額10億ドル企業誕生の仕掛人となった。1895年、米国債を6,200万ドルで引き受け、後の償還ではこれを現金1億ドルに換えて手に入れた。

世界の科学と戦費[編集]


J.P. モルガン&カンパニーは、製紙、電気事業にも投資を行いさらに巨大化した(ゼネラル・エレクトリックなど)。1905年ドレスナー銀行をコルレスバンクにした。1914年にウォール街に建設された本部は「モルガン邸[33]」と通称され、金融資本による経済支配の象徴的存在となった[34]第一次世界大戦中にはイングランド銀行が発行する戦時債券の独占代理人を引き受けた。加えてイギリス・フランスの軍需物資を立て替え払いで調達した(各国累計180億ドルと60億ドル)。関東大震災では、1911年から共同経営者となっていたトーマス・W・ラモントが米国側シ団を組織、借款を承認した[35]

JPモルガンは1917-1926年の間に総額で120億ドル近くの資金を以下の各国へ貸し出している。オーストリア、キューバ、カナダ、ドイツ、ベルギー、フランス、イギリス、イタリア。オーストリアはクーン・ローブとのつきあい。

モルガン・ギャランティ・トラスト[編集]


JPMは1928年に初めて米国預託証券を発行、翌年の世界恐慌により打撃を被る。これを受けてグラス・スティーガル法(銀行と証券の兼営を禁止する法律)も制定され、市中銀行になるか投資銀行になるかの選択を余儀なくされた。JPMは恐慌以前に比較的収益の安定していた市中銀行としての道を選び、分離された証券・投資銀行部門はその後モルガン・スタンレー(MS)となった。誤解されがちだが、MSの「モルガン」はジョン・ピアポント・モルガンに由来するものではなく、投資銀行部門の一般社員から昇進したヘンリー・モルガン(ジョン・ピアポント・モルガンの孫)の名前から付けられている。

新生JPMは1940年に法人格を取得。同年の投資会社法でミューチュアル・ファンドが制度化され、厳格な同族経営の必要が薄れた。1959年にはギャランティ・トラスト・カンパニー・オブ・ニューヨークと合併し、ICSDユーロクリアを支配するモルガン・ギャランティ・トラストとなるが[36]、10年後に持株会社を設立し、再び社名がJ.P. モルガン&カンパニーに復帰した。

LTCM救済融資まで[編集]


パットマン報告書が1960年代半ば金融界の独占を統計資料で明らかにした。JPMは戦後経済に投資家多角化サービス(Investors Diversified Services, IDS)という最大のミューチュアル・ファンド複合体を組み上げていた。それをパットマン報告書は機関化問題として論じた。リチャード・ニクソンは大統領候補であり、IDSの取締役でもあったが、チャールズ・コルソンというファンド・ロビイストの書く手紙に署名までしてやっていた[37]。その数年後にIDSはエクイティ・ファンディング事件を引き起こした。

1980年代を通じてユーロ債市場をリードする[38]。ユーロ債取引の大部分はユーロクリアとクリアストリームで決済された。JPMこそ決済事業に傾斜したが、モルガン・スタンレーとIDSはディーラーであった。1983年7月、モルガン・ギャランティ・トラストが野村証券と日本に共同出資で信託会社をつくることで合意した[39]。この信託会社は「当面」、アメリカの企業年金を対象にした投資顧問業務を行う計画であった。この当時、年金運用は信託銀行と生命保険会社だけが認められていた。公的年金は大蔵省の資産運用部が財政投融資として活用していた。信託銀行、生保、大蔵省は野村=モルガン連合に反発した。なぜなら、野村は国内企業年金の投資顧問業務上の「投資一任勘定」を認めさせようとしていたからである。抵抗むなしく日米円・ドル委員会が容赦ない圧力をかけて、1985年6月に外資系信託銀行9行の設立を認めさせた。こうして翌1986年末に東京がオフショア市場となったのである。1987年、JPMがブラジルに無利子で13億ドルを融資した。JPMは1990年代半ばまでホールセール・バンクとして活躍した。

1997年、アメリカン・センチュリー(American Century Investments)の45%をJPMが買収した[40]。このアメリカン・センチュリーは当時アメリカで4番目に大きいミューチュアル・ファンド直販会社であったが、以降14年間JPMファンドの手足となってグループの資本を調達した。1998年、ロングターム・キャピタル・マネジメントの救済融資に参加した。1999年成立のグラム・リーチ・ブライリー法により銀証分離が撤廃されると、翌年にチェース・マンハッタンとの経営統合し、再び投資銀行となった。

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出典:Wikipedia
2019/07/27 23:00
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