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2.歴史
2.1.ケミカル
1823年に創業されたニューヨーク・ケミカル・マニュファクチャリング(The New York Chemical Manufacturing Company)は化学工業会社であったが、翌1824年4月に金融業務へ参入、子会社としてケミカル・バンク・オブ・ニューヨーク(Chemical Bank of New York)が設立された。最初の頭取はバルタザール(Balthazar P. Melick)で、二代目がジョン・メイソン(John Mason)であった。1844年、親会社の営業特許が切れてケミカル・バンクもそのまま清算された[25]。1838年の銀行法に合わせてケミカル・バンクだけが再興されたが、1851年までに会社財産をあらかた売り払って株主に配当した。

来日以前からの決済機関[編集]


1853年、ケミカルはニューヨーク手形交換所(New York Clearing House)の設立メンバーとなった。1857年恐慌にあっても銀行券を兌換したので「古金塊」とあだ名された。しかし他行の窮状には冷淡であったので、一時は手形交換所から締め出された。南北戦争の間に預金総額を劇的に増やして、1871年までに600万ドルを超えた。1865年からは国立銀行法(1865年)の営業特許を得ていた。内容は特権的で、他の国立銀行の準備金を預かる立場となったのである(Federal Chemical National Bank of New York)。ケミカルの優位性は1907年恐慌までに失われた。[25]

1929年、ニューヨーク州が国立銀行法よりも広くトラストを認めるというので会社形態を改めた(Chemical Bank and Trust Company)[25]。ケミカルは世界恐慌にあっても預金総額を1941年まで増やしつづけた[25]。1934年アイビー・リーが証言したところによると、彼がIG・ファルベンインドゥストリーのマックス(Max Ilgner)からもらった最初の年金給付45000ドルは、IGケミー名義でケミカルの投資信託(New York Trust Company)へ預託されていた。

1945年10月ごろ、日本が貿易するのに使われる外貨中心の対外決済資金をアメリカ陸軍省がケミカルに預託した。この決済資金は後にSCAPへ移管され、手続が1951年8月末には完了した[26]。SCAP勘定の預金口座は次の各行(いずれも東京支店)へ開設された[27]。すなわちニューヨーク・ナショナル・シティーバンカメ、チェース・ナショナル、香港上海銀行チャータード、和蘭銀行、蘭印商業銀行である。このうちバンカメとチェース・ナショナルを除く5行の財産は日銀の管理下にあったが、1951年12月24日までにすべて返還された[28]。ケミカルはロビー団体のアメリカ対日協議会と関係していた。

アナコンダ救済とリースコ事件[編集]


1954年、コーン・エクスチェンジ・バンク(Corn Exchange Bank)を買収した。

1967年、チェース・マンハッタンとモルガン・ギャランティ・トラスト、そしてシティ・バンク・オブ・ニューヨーク(現シティグループ)を伴い、アナコンダ銅鉱山会社に総計8000万ドルを協調融資。

1969年2月、ソウル・スタインバーグ(Saul Steinberg)のリースコ(Leasco Data Processing Equipment Corporation)から敵対的買収を仕掛けられた。リースコはメインバンクがファースト・ボストン(現クレディ・スイス)だった。ケミカルは事前に買収を察知していたばかりか、傘下のミューチュアルファンドがリースコ資本の27%以上を握っていた。プライスウォーターが防衛策を立案し、元イングランド銀行理事のジョージ・ボルトン(George Bolton)がリースコのボイコットを約束した。パワー・コーポレーション(Power Corporation of Canada)のミューチュアルファンド(Putnam Investments)などがリースコの株を一斉に売り払い、買収計画を混乱させた。PCCは後にグループ・ブリュッセル・ランバートの株主となる独占体である。防衛が成功した礼状としての祝電は、AT&TデュポンUSスティールシアーズIBM等の重鎮へ打たれた。その中にはメロン財閥の牙城ピッツバーグで財を成したヘンリー・ヒルマン(Henry Hillman)がいた。ユダヤ人のソウルは自身がエスタブリッシュメントの一員であると思っていたが、裏切られた。[29]

PNCに84支店を売却するまで[編集]


1975年にロングアイランドの金融ネットワーク(Security National Bank)を買収した。

1982年にフロリダ・ナショナル銀行(Florida National Bank)を買収した。1983年時点でニューヨーク連邦準備銀行の会員銀行である。この年に変死した、セデル社のジェラール・ソワソンが残した書類によると、ケミカルはセデルに匿名口座を開くように要求していた。1986年にテキサス商業銀行(Texas Commerce Bank)を買収した。

1991年、マニュファクチャーズ・ハノーヴァー・トラスト(Manufacturers Hanover Trust)を買収した。

1995年、ニュージャージーの84支店をPNC(PNC Financial Services)に売却した[25]。1996年、チェース・マンハッタンを買収したが、新社名には買収先を残した。さらに2000年、チェース・マンハッタンがJPMと経営統合するが、現在もその本社機能はケミカルのものを引き継いでおり、また法定手続上の直接の前身である。

チェース・マンハッタン[編集]


チェース・マンハッタン・バンク(The Chase Manhattan Bank)は、1955年バンク・オブ・マンハッタンがチェース・ナショナル・バンクを買収して発足した。1958年クレジットカード『バンカメリカード』が発明された。これと競争するため、1960年チェースマンハッタン銀行が「マスターチャージ」を発明した。1962年に現在のMasterCardにブランド名を変更し、現在に至る。1965年、バンク・ブリュッセル・ランバート(Bank Brussels Lambert)に参加し、ベルギー商業銀行にも49%資本参加した[30]1970年代から1980年代にかけてはデイヴィッド・ロックフェラーが同行の頭取を務めた。この頃は債券株式市場、シンジケートローンからクレジットカード、住宅ローンに至るまで、幅広い分野で高い業績を残した名門銀行だった。1985年、チェース・マンハッタン信託銀行を設立した(現日本マスタートラスト信託銀行)。1990年代に入ると不動産市場低迷の影響を受けてかつての地位を失い、1996年ケミカルと合併した。

チェース・マンハッタンの前身2行についても書いておこう。バンク・オブ・マンハッタン(マンハッタン銀行)は1799年の創立で、JPMチェースの前身企業中最古の歴史をもつ。かつて水道事業者だったマンハッタン社(The Manhattan Company)を、アーロン・バーが銀行に転換させた。現在のJPMチェースのロゴは前身のチェース・マンハッタンのものであり、そしてさらに前身のバンク・オブ・マンハッタンのものである[31]。とにかくマンハッタン銀行は最古参であるニューヨーク銀行と競争したが、1853年ニューヨーク手形交換所の原加盟銀行となってからは、ライバルとも一定の人的関係をもつようになった。1929年国際引受銀行(International Acceptance Bank)と合併したとき、M・M・ヴァールブルク&COのポール・ワーバーグ(Paul Warburg)が会長となった[32]

チェース・ナショナル・バンクは1877年の創立で、名前はサーモン・チェイスにちなむ。しかし経営者のジョン・トンプソンとは仕事上の関わりがなかったようである。チェースは1917年、他の国内銀行33行とカナダの一銀行に混ざり、国外進出用ファンドをつくった(American Foreign Banking Corporation)。1923年ロンドンに代理店を出した。1925年、AFBCのハバナとパナマ支店を買収した。1929年チェース証券がアメリカン・エキスプレスの経営権を握った。1930年、チェースはエクイタブル信託(エクイタブル生命子会社)と合併し、多国籍企業となった。エクイタブル信託社長(Winthrop Aldrich)はロックフェラー家と姻戚関係にあり、1934年チェース会長となった。1951年に香港支店を閉じた。毛沢東の監視下でやってはいけなかった。[30]

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出典:Wikipedia
2019/07/27 23:00
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