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IRA暫定派
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6.外部との関係
6.1.一般からの支援
IRAに対する一般の支援はどの程度の役割を果たしたのかについてははっきりとしない。IRAの政治組織であったシン・フェインは1980年代以前には選挙に参加していなかった。それ以後も北アイルランドの選挙においてはナショナリストの支持は穏健派の社会民主労働党へと集まっていた。1981年に行われたIRAメンバーによるハンガー・ストライキはシン・フェインに対する支持を集め、1983年の英国下院議院選挙においては、北アイルランドに住むカトリックの43%、10万5千もの人々がシン・フェインの候補に投票したのに対して、社会民主労働党は3万4千票しか得られなかった[21]。1992年の総選挙では社会民主労働党が184,445票でシン・フェインが78,291票を得たが、議席は得られなかった[22]。1993年の北アイルランド地方選挙においては社会民主労働党が150,000票、シン・フェインが80,000票であった[23]。これらの結果からは、北アイルランド紛争中における選挙においてカトリック教徒は一貫して穏健派を支持していたことがわかる。1998年にベルファスト合意が形成され、シン・フェインが武装闘争への支持を撤回した後になるとシン・フェインが第一党となっている。プロテスタントがカトリック政党へ投票することはほとんどないが、1992年の選挙におえける西ベルファスト選挙区においては、ユニオニスト政党の候補を避けてジョー・ヘンドロンに票が集まった。これは同選挙区において立候補していたジェリー・アダムズを落選させるためであった[24]

全体から見ると比較的少数ではあるが、北アイルランドにはアイルランド共和主義に起因するIRAへの根強い支持が存在する。ベルファストやロンドンデリーにおけるカトリック教徒労働者層、特に北部および西部ベルファストとロンドンデリーのBogsideとCregganが中心であった。以前から共和主義者の地盤であった東ティロン、デリー州南部などでも暫定派への支持が見られる。このような地域は、IRA暫定派への参加者の出生地、武器の保管場所、メンバーのセーフ・ハウスとして利用されていた。

アイルランド共和国においても、その結成時から暫定派に対するある程度の支持が存在した。しかし暫定派によるテロで一般市民が殺害される事件が頻発するようになると支持は次第に失われていった。1987年にエニスキレンの記念碑において開かれていた第一次世界大戦の休戦記念日の式典におけるテロ事件や、ワリントンでのテロで子供二人が殺害された事件では、ダブリンのオコンネル・ストリートに数万人もの人々が集まり紛争終結とIRA非難のデモをおこなった。IRAが活発に活動している時期には、シン・フェインへの投票も減少する傾向が見られた。例えば1981年のアイルランド総選挙においては、シン・フェインの得票率は5%であったが[25]、1987年になると1.7%にまで減少した[26]。1998年のベルファスト合意後になり、シン・フェインへの支持は増加している。

シンフェインは現在北アイルランド議会の全108議席中24議席を獲得している。英国議会下院においては18議席が割り当てられている北アイルランドの議席中5議席が党員である。アイルランド共和国議会においては166議席中の14議席を占める。近年におけるシン・フェインへの支持の増加は、IRA暫定派の休戦が影響しているとの見方が強い。

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出典:Wikipedia
2020/02/04 20:31
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