マダガスカル
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4.歴史
4.3.内陸部の内発的発展
メリナ王国が17世紀前半、中央高地に出現したころ、その勢力は沿岸の王国群の中でも比較的大きな国と比べるとまだ弱く、アンヂアマシナヴァルナが4人の息子に王国を分け与えた18世紀初期にはさらに弱小となった。いくさと飢餓の半世紀をすごし、メリナ王国はアンヂアナンプイニメリナ(在位1787年-1810年)により1793年に再統一された(注1)。王は都をアンブヒマンガから(注2)、アンタナナリヴに移し、近隣の自立した勢力にその支配を急激に拡大した。メリナの王権の支配をマダガスカル島全体に行き渡らせるという彼の野望は、王位を受け継いだ息子のラダマ1世(在位1810年?1828年)により大部分が達成された。ラダマ1世はイギリス政府により「マダガスカル王」として認められた(注3)。ラダマ1世は1817年に、イギリスの軍事経済的援助を得る見返りに、割のいい奴隷貿易を廃止するため、モーリシャスのイギリス政府と条約を結んだ。が派遣した専門技術を持つ宣教師が1818年に到着、学校の設立、ローマ字を用いたマダガスカル語の書記法の考案、聖書の翻訳をするなどして、新しい技術を島にもたらした。
ラダマ1世から王位を受け継いだラナヴァルナ1世女王(在位1828年?1861年)は、イギリス、フランスの一部の者たちによる政治的、文化的な侵略が増加していることに対抗して、マダガスカルにおけるキリスト教の宗教活動を禁止する勅令を発し、また、ほとんどの外国人にたいして領土の外へ出るように圧力をかけた。マダガスカルの住民は、偸盗、淫祠、邪教(ここではキリスト教)などのさまざまな罪で他人を告発することができるようになった。これらの罪には「タンゲナ, tangena」という神明裁判が欠かさず行われ、ラナヴァルナ1世の統治した約30年間で、一年あたり約3000人の命がタンゲナにより失われた(注4)
メリナ王国に住み続けた外国人もおり、企業家のジャン・ラボルドはそのうちの1人である。彼は女王の名代として武器開発やその他の産業の振興に努めた。冒険家で奴隷商人でもあったジョゼフ=フランソワ・ランベールはラダマ2世がまだ王子であった頃から彼に取り入り、ランベール特許状と呼ばれる問題の多い覚書を王と秘密裡に締約した。母から王位を受け継いだラダマ2世(在位1861年-1863年)は母の厳しい政策を緩和しようと試みたが、2年後に首相のライニヴニナヒチニウニ(在職1852年-1865年)らに謀殺された。ラダマ2世の暗殺は国王が絶対的な権力を持つ体制を終わらせようとしていた、アンヂアナ(andriana, 貴族)とフヴァ(hova, 自由民)の廷臣たちが結託してなされたものであった。
謀略の後、廷臣らはラダマ2世の后であったラスヘリナ(在位1863年?1868年)に女王として王位に就くことを提案した。そのための条件としては、権力を首相と共有すること、そして、ラスヘリナと首相が政略結婚することによりこの取引を隠蔽することであった(注5)。ラスヘリナは同意し、ライニヴニナヒチニウニと結婚した。後にラスヘリナはライニヴニナヒチニウニを退け、彼の弟であり首相のライニライアリヴニ(在職1864年?1895年)と再び政略結婚した。ライニライアリヴニはラスヘリナが亡くなると、やはり跡を継いだラナヴァルナ2世女王(在位1868年?1883年)、ラナヴァルナ3世女王(在位1883年?1897年)と政略結婚した(注6)
ライニライアリヴニは終生首相の地位にあって、その31年間の在職中に近代化と中央集権化を目的とした多くの政策を実施した。島全土に学校を建て、通学を義務化した。軍隊の再編も行った。また、イギリス人を雇い、常備軍化と鉄道建設を図った(注7)英国法を基礎にした法典範を整備し、三審制を導入するとともに首都にヨーロッパ風の裁判所を建てた。ライニライアリヴニは将軍も兼務し、フランスの幾度かにわたる侵略からマダガスカルを守ることにも成功した。なお、キリスト教は、信徒であったラナヴァルナ2世が1868年に女王に即位すると、あっさりと宮廷公認の教えである旨の宣言がなされ、人口が増加しつつあったマダガスカル社会に伝統宗教と並んで受け入れられた(注8)重婚も非合法化された。
1883年、北西部の権益の保護を口実に、フランスはマダガスカルに侵攻する。フランス語では「第一次マダガスカル遠征」という名で知られる戦争である(注9)。マダガスカルは敗戦し、北部の港町アンツィラナナ(ディエゴ・スアレス)をフランスに割譲し、ランベールの相続権者に56万フランを支払った(注10)。1890年にイギリスはフランスによる全面保護国化のマダガスカルへの正式強制を受け入れたが、マダガスカル政府はフランスの権威を認めなかった。フランスはマダガスカルを服従させるために、東海岸にあるトゥアマシナの港を1894年12月に砲撃及び占領し、1895年1月には西海岸の港町マハザンガも占領した(注11)
北アフリカ西アフリカ出身の兵で強化されたフランス軍の別動隊がアンタナナリヴに向かって進軍したが、マラリアやその他の病気でかなりの数の兵士が失われた。当該別動隊は1895年9月に首都にたどり着くと女王宮を大砲で砲撃し、大損害を与えるとともに女王ラナヴァルナ3世を降伏させた(注12)。フランスは1896年にマダガスカルを併合し、翌年に植民地化を宣言した。メリナ王国は解体され、王室はレユニオン島に追放された。フランスが宮殿を接収したことに対する抵抗運動が起きたが1897年の終わりには鎮圧された(注13)。「メナランバの乱」と呼ばれるこの反乱は、各地に行政官として派遣されていたメリナ王国の高官とその指揮下の部隊が中核となったが、フランスはその鎮圧にあたって、国家間の戦争であったフランス=メリナ王国戦争(第二次マダガスカル遠征)時とは態度を一変させた。自らが主権を確立した土地における反乱に対しては容赦しない姿勢を示し、反乱参加者を拘束するとその場で処刑を行った。1895年から1898年の間の社会不安には飢饉も加わり、数十万人が死んだ。

1.Hodder (1982), p. 59
2.Royal Hill of Ambohimanga
http://whc.unesco.org/en/list/950
3.Ade Ajayi (1998), pp. 413?422
4. The state and pre-colonial demographic history: the case of nineteenth century Madagascar

5.Oliver (1886), pp. 124?126
6.Uwechue (1981), p. 473
7.Fage, Flint & Oliver (1986), pp. 522?524
8.Thompson & Adloff (1965), pp. 9?10
9.Van Den Boogaerde (2008), p. 7
10.Randier (2006), p. 400
11.Curtin (1998), p. 186
12.Oliver, Fage & Sanderson (1985), p. 529
13.Oliver, Fage & Sanderson (1985), p. 532

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出典:Wikipedia
2017/04/23 09:22
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