4.2.アルバム『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』の衝撃
ライブ活動停止後間もなくレコーディングが始められ、今までにない長い作業の末リリースされたアルバム『
サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』のリリースは、世界のポップス・シーンに大きな衝撃を与えた。このアルバムはロックは勿論、世界のポピュラー音楽の金字塔のアルバムとも評価されている。
2台の4トラックテープレコーダー(最終的には2台による
ピンポン録音から、1台目の1トラックに信号音を入れて、それを電気的に増幅し、シンクロさせた2台目のモーターを起動して使用)を利用したオーバー・ダビングだけで作り上げたそのサウンドには、様々な楽器や効果音が使われている。当時の技術でこれだけのサウンドを作り上げることは非常に衝撃的な出来事だった。当時はまだアメリカでさえ実現していない「8トラックを超えるテープレコーダーが完成した」などという噂も飛び交っていた。
これに関し「答は簡単。8トラックしかなかったから8トラックでレコーディングを行った」とプロデューサー・ジョージ=マーティンは答えている。
このアルバムはそれまでの彼等の音楽とは異なり、各収録曲がそれぞれ全然違うタイプの曲であり、非常に広範なジャンルの楽曲の集まりだった。これを「架空のバンドによる擬似ライブ・ショー仕立てにする」との設定で、1枚のアルバムとして統一感を持たせるというアイディアはポールのものであった。
「ジャケットに歌詞を印刷する」、「ドラムスのチューニングを極端に落とした上、布などでミュートする」(これは『リボルバー』レコーディング時に、テープスピードを可変させながら録音していくテクニックを駆使する中で発見されたサウンドのテクスチャーを『サージェント〜』では意図的に作り上げたとされる)、「ベースラインが
和音(コード)のルート音に縛られずに、時には
フレーズや
メロディーをプレイする時もある」など、全て彼らが最初に行ったとは言えないとしても、画期的な手法を分かりやすい方法で押し出して完成させたものである。それまでビートルズを聴かなかった多くのロック嫌いの人たちの心を掴んだ。
当時はロック・バンドと
オーケストラが共演するなどということは考えられなかった。この成功は、プロデューサーのジョージ・マーティンに因るところが大きい。
1965年の「イエスタデイ」で
弦楽四重奏を使用したのがその始まりだが、フル・オーケストラとロック・バンドの競演となると事情が違ってくる。当時、ジョージはビートルズというグループを代弁して「我々とは関係ないと思っていた人々がビートルズ・ファンであることを知った。」と
タイム誌に語ったが、これは『サージェント〜』の発売と同時にぴたりと口をつぐんだアンチ・ビートルズの批評家や音楽家に対するビートルズの皮肉ともいわれている。そういった風潮の中で最後の曲の「
ア・デイ・イン・ザ・ライフ」は41人編成のオーケストラを取り入れ、またチェンバロとボーカルの絡み合いの競演が実現した。こういった点を鑑みると、クラシックにも精通していて
スコアも書けたマーティンの仲介がなければ実現不可能だったことは十分考えられる。またダコタ・アパートで後に隣人となった米国を代表する指揮者
レナード・バーンスタインは、「アクセントこそ異なっているが、特に「
シーズ・リーヴィング・ホーム」は
シューベルトが書いたどんな曲にも勝るとも劣らない。少なくとも
ヘンデルより優っている」と言った。これらの一連の演奏面での融合は、後に
ハードロックで名声を得ることとなる、
ディープ・パープルや、いくつかの
プログレッシヴ・ロックの手法にも、明らかに影響を与えたといえる。さらにクラシックの演奏家の中にも、
アコースティックやバラードを多く手掛けるようになったビートルズに好感を持つ人が増えていたことも一因だろう。このアルバムの発表後、まもなく彼等は世界初の宇宙中継の番組、アワー・ワールドに出演して「愛こそはすべて」という名曲を歌う。この番組は世界で約6億人が視聴したという。