趙紫陽
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1.生涯
1.1.共産党入党から最初の失脚まで
現在の河南省滑県桑村郷趙庄で、富農の父・趙廷賓の長男として生まれ育った。原名は趙修業だが、少年期には既に自ら趙紫陽と名乗っていた。中国国民党率いる中華民国政府が中国大陸を統治していた1932年に、中国国民党と対立していた中国共産主義青年団に加入。日中戦争最中の1938年2月、中国共産党に入党した。

国共内戦終結後の1949年の中華人民共和国成立後、広東省党委員会第三書記などを歴任。大躍進などの失敗で、香港に逃げ込んだ人民に対し「自分たちが彼らを食べさせられないのだから仕方ない」と発言し、英国政府に送還された彼らを厳しく責めることはしなかった。農家を視察し、政策の失敗を目の当たりにしていたからである。農村における調整政策として三自一包などを実行し、広東経済は若干好転した。

1966年4月の第8期11中全会陶鋳が政治局常務委員に昇格し中央入りしたため、46歳と当時最年少で広東省党委第一書記に就任する。ところが陶鋳は間もなくケ小平の代理として打倒され、趙紫陽も広東における陶鋳の代理人として批判を受け、失脚した。

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(1.2.中央への栄転)
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出典:Wikipedia
2019/06/04 13:00
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