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4.日本
4.1.日本における諱の歴史
日本では個人の名前は「石川麻呂(いしかわまろ)」や「穴穂部間人(あなほべのはしひと)」といったふうに長い訓に漢字を当ててきたが、嵯峨天皇のころ遣唐使であった菅原清公の進言によって、男子の名前は漢字で二文字か一字、女子の名前は「○子」とするといった、漢風の名前の使用が進められ、定着した。

このように、中国の伝統を取り入れた名前の習慣が定着すると、実名のことを漢文表記するときは中国と同様、諱と呼んだ。

これは中国と同様に実名と霊的人格が結びついているという宗教的思想に基く。そのため、平安時代には武士などが主従関係や師弟関係を取り結ぶときに、主君・師匠に自分の名を書いた名簿(みょうぶ)を提出するしきたりがあった。また、親子関係、夫婦関係以外の社会的主従関係に乏しかった女性では名の秘匿がより進み、公的に活躍した人物ですら、後世実名が不明となる場合が多かった。清少納言紫式部菅原孝標女の実名が不明なのはこのためである(少納言式部は、父親等の官職名から付けられた女房としての職務上の呼称である。また、孝標女は父・菅原孝標の名がそのままつけられている)。

また、平安時代以降には貴人は、その貴人が居住する邸宅の所在地名や官職名などに基づいてつけられた通称を使って呼ばれ、武士などより身分の低い者も太郎、次郎などの兄弟の出生順序などからつけられた、仮名(けみょう)と呼ばれる通称が用いられた。仮名については、室町時代以降、官職風の人名として百官名、さらには東百官のようなものも派生するようになり、諱と別につけられた通称をもって人名とすることが明治時代まで行われていた。

時代劇で例を挙げると、江戸時代の旗本で、時代劇遠山の金さん』の主人公の遠山景元の場合、諱は「景元」であるが、劇中においてこの名で呼ばれる事はなく、百官名である「左衛門尉さま」、あるいは仮名である「金四郎」(さらにこれから派生した金さん)の名で呼ばれる訳である。だが戦国時代では、官職名ではなくあえて諱で呼び、さらに敬称をつけずに呼び捨てにするのが、最上級の敬意を表す事例もあるので、日本の歴史上、諱で呼ぶのが常に礼を失する行為であったわけではない[9]。また、本能寺の変を記した本城惣右衛門覚書では、「のぶながさま」「いへやすさま(別の箇所では「いゑやすさま」とも)」と書かれており、諱が使用される例が皆無であったわけでもない(一方、この文では、自軍であった明智勢の明智秀満を通称の「弥平次」、斎藤利三を「くら介」「さいとう蔵介」と官職名で書いている)。

明治に至り、1870年(明治3年)12月22日太政官布告「在官之輩名称之儀是迄苗字官相署シ来候処自今官苗字実名相署シ可申事」と、1871年(明治4年)10月12日の太政官布告「自今位記官記ヲ始メ一切公用ノ文書ニ姓尸ヲ除キ苗字実名ノミ相用候事」、及び1872年(明治5年)5月7日の太政官布告「従来通称名乗両様相用来候輩自今一名タルヘキ事」により、諱と通称を併称することが公式に廃止されている。すべて国民戸籍に「氏」及び「名」を登録することとなり、それまで複数の名(諱および通称ならびに号等)を持っていた者は、それぞれ自身が選択したものを「名」として戸籍登録することとし、登録時に婚姻養子縁組を伴わない者の改名は禁止された。当時の明治政府高官の例では、伊藤春輔博文は諱を、山本権兵衛盛武は通称をそれぞれ登録している。

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出典:Wikipedia
2019/05/26 13:30
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