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鈴木貫太郎
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5.海軍軍人として
日本海海戦のときには、第四駆逐隊司令として、ロシアバルチック艦隊の残存艦3隻を雷撃で撃沈した[10]。そのため連合艦隊参謀秋山真之から「1隻は他の艦隊の手柄にしてやってくれ」と言われた[2][102]。第四駆逐隊の乗組員たちは、その後毎年5月27日の海軍記念日に、鈴木を囲んで当時の思い出や海軍の将来を語り合う「晴濤会」という会合を催していた[103]。会員の一人であった荒城二郎(当時「朝霧」乗組、のち中将)は、「翁(鈴木)はこの集まりを毎年楽しみにしていた。首相在任中の1945年にも官邸に会場を用意していたほどだったが、さすがにこの時は空襲による灯火管制・交通途絶により中止となった」と述懐している[104]

枢密院議長をしていた1943年(昭和18年)のこと、会議の席で海軍大臣・嶋田繁太郎山本五十六の戦死(海軍甲事件。国民には秘匿されていた)を簡単に報告した。驚いた鈴木が「それは一体いつのことだ?」と問うと嶋田は「海軍の機密事項ですのでお答えできません」と官僚的な答弁をした。すると、普段温厚で寡黙な鈴木が「俺は帝国の海軍大将だ! お前の今のその答弁は何であるか!」(鈴木は1928年に予備役に編入され、1932年に後備役、1937年に退役[69]。ただし、帝国海軍士官は終身官であったので、海軍大将の階級を有することには変わりない)と大声で嶋田を叱責し、周囲にいた者はいまだ「鬼貫」が健在であることを思い知らされ驚愕したという。

同じ頃、以前校長を務めた海軍兵学校を訪ね、校長の井上成美に会い「教育の効果が現れるのは20年さきだよ、井上君」と鈴木が言うと、井上は大きく頷いたという[105]。この三十年以上前、兵学校を卒業した井上が少尉候補生として乗り組んだ巡洋艦「宗谷」の艦長が鈴木であった[105]。井上は終始戦争反対派、校長に就任してからは兵学校の制度や因習を改正し、戦後に名校長と讃えられている。二人の問答を傍らで聞いていた兵学校企画課長は[注 10]「鈴木がはるばる広島県・江田島の兵学校まで来たのは、この一言を井上に告げるためだったのでは」と感じた、と戦後に述べている[107]

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出典:Wikipedia
2020/02/06 08:30
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