サービス終了のお知らせ
冷戦
▼人気記事ランキング
3.冷戦の展開
3.8.改革から冷戦終結、そしてソ連崩壊(1985年-1991年)

ゴルバチョフによる改革(1985年-1988年)[編集]


1985年、ソ連共産党書記長に就任したミハイル・ゴルバチョフは、改革(ペレストロイカ)および新思考外交を掲げて、経済が疲弊した国内体制の改良と、予算案を大幅に削減した大胆な軍縮提案を行い、さらには西側との関係改善に乗り出す。

1987年にアメリカとの間で中距離核戦力全廃条約 (INF) を調印した。この緊張緩和によって、両国の代理戦争と化していたオガデン戦争アンゴラ内戦1988年から順次終結し、リビアフランスが介入したチャド内戦も終結した。カンボジア内戦も1988年から和平会議が開催された。

東欧革命と冷戦終結(1988年-1989年)[編集]


また、既に1980年代初頭から独立自主管理労働組合「連帯」が結成され民主化の動きが見られていたポーランドでは1989年の選挙でポーランド統一労働者党が失脚して政権が交代し、同様に東欧諸国の中でも比較的早くから改革路線を行っていたハンガリーチェコスロバキアでもソ連式共産党体制が相次いで倒れ、夏には東ドイツ国民が西ドイツへこれらの国を経て大量脱出した。

東ドイツはあくまで強硬な社会主義路線を取り民衆を抑え込もうとしたが、10月のライプツィヒで行われた月曜デモには10万人が参加し、事態を収拾できなかった社会主義統一党内部では、幹部であったエーリッヒ・ホーネッカーの求心力が低下し、まもなく総辞職に追い込まれた。後任の指導部も民主化を求める動きをせき止められず、東ドイツは政治・経済が崩壊状態に陥った。

このため、11月9日には東ドイツがベルリンの壁の開放を宣言、冷戦の象徴ともいうべきベルリンの壁が崩壊した。ルーマニアでも革命が勃発し、ニコラエ・チャウシェスク大統領夫妻が射殺され、共産党政権が倒された。これら東ヨーロッパの共産党政権が連続的に倒された革命を、東欧革命という。1989年12月には、地中海マルタ島で、ゴルバチョフとジョージ・H・W・ブッシュ会談し、冷戦の終結を宣言した[18]。しかし、中国では六四天安門事件が起き、東アジアの共産党政権(竹のカーテン)では民主化ドミノが武力で抑制された。

ソビエト連邦の崩壊(1989年-1991年)[編集]


1990年8月に起きた湾岸戦争では、欧米ソ中が世界第四の軍事大国に仕立てたイラクのクウェート侵攻に対するアメリカ主導の武力行使容認決議にソ連は同調し、米ソで二極化してきた世界はアメリカ一極化への兆しが見え始めた。アメリカは、1990年8月のイラク軍によるクウェート侵攻(湾岸危機)を皮切りにアラビア半島に展開、翌1991年1月にイラクとの間で湾岸戦争に踏み切り、これに勝利した。湾岸危機の際に1991年1月中旬からイラクの要請を受けていたソ連の和平案が当時の欧州共同体外相会議で賛成され、翌日にイラクと無条件全面撤退で合意したが、ブッシュ大統領はこれを退けた(数日後、シュワルツコフがソ連案を修正して停戦が決まった)。イラクを下したアメリカは世界の盟主として自信を深め、その後はパレスチナ問題を中心に中東への関心と介入を深めていく。湾岸戦争はその後の世界情勢を形成する上で非常に重要だったといえる。

ソ連国内ではペレストロイカ路線は行き詰まりつつあった。バルト三国の独立要求が高まり、1988年11月にエストニア・ソビエト社会主義共和国が主権宣言、同年リトアニア・ソビエト社会主義共和国でもサユディスによる独立運動の加速により、国旗をソビエト編入以前のデザインに戻された。1989年7月にリトアニア共産党ソビエト連邦共産党からの独立を宣言した。

1990年3月から6月にかけてに東欧各国で一斉に選挙が実施され、ほとんどの国で共産党が第一党から転落した。バルト三国でも共産党は少数野党となり、バルト三国の各最高会議は独立宣言を採択した。ソ連政府はバルト3国に対して軍事行動を起こし、1991年1月の血の日曜日事件(リトアニア)などで、ソ連軍と民間人が衝突する事態になった。

ソ連は1991年3月、バルト3国を除く首脳が、連邦の権限を縮小した新連邦の構想に合意した。同年3月17日には新連邦条約を締結するための布石として、連邦制維持の賛否を問う国民投票(英語版、ロシア語版)が各共和国で行われ、投票者の76.4%が連邦制維持に賛成票を投じることとなった。しかし、既に分離独立を宣言していたバルト三国(エストニア・ソビエト社会主義共和国、ラトビア・ソビエト社会主義共和国、リトアニア・ソビエト社会主義共和国)、モルダビア・ソビエト社会主義共和国グルジア・ソビエト社会主義共和国アルメニア・ソビエト社会主義共和国は投票をボイコットした。

1991年6月12日、ソ連体制内で機能が形骸化していたロシア・ソビエト連邦社会主義共和国で、選挙により大統領に当選したボリス・エリツィンは、国名を「ロシア共和国」に改称し、主権宣言を出して連邦からの離脱を表明した。

また、米ソ両国は1991年7月に第一次戦略兵器削減条約 (START) に調印した。しかし8月20日に予定されていた新連邦条約調印を前に、ゴルバチョフの改革に反抗した勢力が軍事クーデターを起こし、ゴルバチョフを滞在先のクリミアで軟禁状態に置いた。クーデターは、ロシアのエリツィンの活躍やクーデター勢力の準備不足から失敗に終わった。

しかし、その結果バルト三国は独立を達成し、各構成共和国でも独立に向けた動きが進み、12月8日に、ロシアのエリツィン、ウクライナレオニード・クラフチュクベラルーシスタニスラフ・シュシケビッチベラルーシベロヴェーシの森で会談し、ソ連からの離脱と独立国家共同体 (CIS) の結成で合意した(「ベロヴェーシの陰謀」)。こうして12月25日をもってソ連は消滅した。その後十年間で、東欧や旧ソ連の国々の一部は、相次いで資本主義国家となった。

~目次に戻る
出典:Wikipedia
2020/02/19 09:00
ソ人気記事ランキング
2020/02/23 更新
 1位日本
 2位水野朝陽
 3位メイプルソープ事件
 4位第二次世界大戦
 5位AV女優
▲上に戻る
[9]Wikipediaトップ
[0]gooトップ
免責事項
(C)NTT Resonant