林家三平 (初代)
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5.芸風・エピソード
5.1.私生活
売れ始めた当初は、遊びが過ぎて家にほとんど金を入れず、妻香葉子は内職に追われていたという。内職片手に子供に授乳するため、左乳のみが垂れてしまったという逸話もある。

同時期に活躍した石原裕次郎とは親交が大変深く、その付き合いは家族ぐるみのものであった。三平が1980年に、裕次郎が1987年にそれぞれ没した後もその親交は続いており、長男こぶ平の9代正蔵および次男泰助の2代三平の襲名披露に際しては石原プロモーションによる全面的なバックアップが行われ、大変に豪華なものとなった。

1971年7代目立川談志参議院選挙に立候補した時には、「ご町内の皆様、おはようございます。林家三平がご挨拶にあがりました。奥さんどうもすいません、三平です。こうやったら笑って下さい(と、額にゲンコツをかざす)。皆さん、ここにいる圓歌さんは、十年に一人出るか出ないかという芸人です。この談志さんは五十年に一人。この私、三平は百年に一人の芸人と、文化放送の大友プロデューサーが言ってくれました。そして、こちらの円鏡さんは一年に一人という……」と言ったところ、円鏡が「兄さん、そりゃあシャレにならねぇ。」と止めに入るような応援演説だったため、誰が立候補したのかわからないような無茶苦茶なものだったという。

かような応援演説のせいで勘違いした者がおり、この選挙で「林家三平」と書かれた無効票が、圓歌によれば24票入っていたという(5代目鈴々舎馬風は28票という数字を挙げている)。いずれにしても基本的には選挙で無効票の個別内容とその票数までもが詳細に公開されることはないので[18]、これらは噺家たちによるネタと見るべきものである。とはいえ、三平の応援演説が原因で、実際にこのような「事故」が多少なりとも発生したであろうことは想像に難くない。

ネタづくりのとき、仕事仲間から自宅の仕事部屋が暑くて困ると言われ、唐突にエアコン(当時は高級品)を購入したが、下の窓につけたのでちっとも涼しくならずみんな寝転がってネタを作ったり、移動が大変なので自家用車を買うことになり、夫人に相談もなしに運転手つきの車を購入するなど、値の張る衝動買いをしばしば引き起こしている。

息子・正蔵の回想によると、子どもの頃の父・三平に対するイメージは、「典型的な優しいお父さん」という印象だったそうだが、落語家として弟子入りした直後からそれまでの態度が嘘のように厳しい態度をとるようになったという。古典の稽古で噺を上手くできない度にゲンコツを喰らっていたなど、下積み修行時代には容赦なく殴られることも少なくなかったとのこと。このことに関して正蔵は、「父は、僕を一人前の噺家にするために人並み以上の責任感と言うものを背負っていたのだろう。だからあのときの拳骨の一発一発が僕に対する愛情だった」と語っている。これは、三平自身が大正生まれで、まだ前近代的な価値観を持ってたが故、そして自身の跡継ぎとなる実子が、一門の誇りと信頼を汚さぬよう立派な落語家に育て上げるという責任感の強さから、このような非常に厳しい指導を正蔵に行っていたとされる。

その反面、非常に付き合いを重視しており、弟子達を連れて飲みに行き、奢ることがたびたびあった。父親である正蔵が吝嗇と呼ばれ、出費を伴う付き合いを嫌ったと言われたのとは対照的であった。

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出典:Wikipedia
2019/06/02 03:00
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