李成桂
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1.略伝
1.2.朝鮮王朝建国までの道程
1356年、高麗の恭愍王は反元政策を掲げ、元に奪われていた領土の収復を推進した[4]。領土奪還のためには全州李氏一族の協力が必要であった[4]。李成桂の父で、当時元の千戸の地位にあった李子春は恭愍王の政策に進んで協力した[4]。恭愍王は双城総管府攻撃の直前に、李子春を開京に呼んで小府尹という高位の官職を与えた[4]。東北面兵馬使柳仁雨率いる高麗軍が双城を攻撃すると、李子春は内部から呼応して高麗軍と共に戦い[4]、双城を容易に陥落させた[4]
この功により李子春は従二品の位を授かり、東北面兵馬使に任じられ[4]、全州李氏一族は母国に復帰した[4]

双城陥落から四年後の1360年に李子春は朔方道万戸兼兵馬使に任命されたが[36]、その直後に46歳で亡くなった。既に彼の息子である李成桂は武将となっており、翌年には朴儀の反乱を鎮圧して功を立てている[36]。また、この年に李成桂は二つの大きな戦いを経験している。一つ目は紅巾軍の侵入である。1361年、10万の紅巾軍が南侵して首都開京を占領した[36]。首都奪還戦において2000名を率いて開京一番乗りを果たした[36]。この戦いはその後の李成桂の台頭の始まりとなった[37]。二つ目は元軍との戦いである。双城を奪還のために侵攻してきた元の大軍を咸興平野で殲滅し、ここでも勇名を高めた[38]

当時の中国遼東地方では、元の権威が弱まったことに乗じて、元人の納哈出(ナガチュ)が行政丞相を自称して強大な勢力をもっていた[36]。納哈出は遼東を支配下に置くと、自ら軍勢を率いて高麗に侵入し、瞬く間に西北部を攻略して三撤(咸鏡南道北青)、忽面(咸鏡南道洪原)にまで迫った[36]。1362年2月、李成桂は東北面兵馬使として納哈出征討を行い、これを撃破して咸関嶺(洪原の西15km)まで追撃したが納哈出を逃してしまった[36]。同年7月、遼東で兵を補った納哈出は再び高麗に侵入したが、再度これを撃破し、納哈出に高麗侵入を断念させた[36]。1363年、元は高麗の態度を不遜だとし、反元の王を廃し、王の叔父である徳興君を王位に就かせようとしたが、高麗は断固としてこの要求を拒んだ[38]。1364年、元は高麗の反逆者崔儒に元兵1万を授けて高麗に侵攻させたが、李成桂は崔瑩らと共に国境近くでこれを殲滅した[38]。この敗北により元は恭愍王の復位を容認して崔儒を高麗に送還し、高麗は元の干渉からほぼ完全に脱却した[39]。そして同年2月、満州から大軍で侵入して和寧(咸鏡南道永興、現在の金野郡)以北を占領していた女真族を李成桂は討伐して領土を奪還した[36]。この女真討伐戦の時に文官として従軍したのが、親友でありながら後に李成桂と対立した鄭夢周である[36]。李成桂は1370年には東北面元帥として東寧府を攻め、さらには大陸の遼陽城までも制圧した[38]

南方の対倭寇戦では、1377年に智異山で倭寇を殲滅したことによって名声を確固たるものにし[36]、同年8月にも西海道(黄海道)一帯の倭寇を大破していた[38]。そして1380年倭寇が500隻から成る軍勢で侵入し、その中で最も強力な倭寇の集団が雲峰(全羅北道南原郡)の引月駅を占領したため、高麗側は9人の元帥に攻撃させたが敗北して二人の元帥が死んだ。この事態を受けて李成桂は総指揮官に任命され、首領阿只抜都率いる倭寇を引月駅に進撃してこれを破った(荒山戦闘)[36]

一連の戦いで名声を得た李成桂のもとには、新興官僚[40]や地方豪族が集まっていくことになる[41]。1388年、が高麗領である鉄嶺以北の割譲を一方的に通告してきたため、高麗第三十二代国王王?と崔瑩は遼東地域を支配下に置くことで明の圧力を退けようと計画した[39]。李成桂は右軍都総使に任じられ[1]、前線指揮を担った[42]。李成桂は四つの不可論[43]を理由に出兵を反対していたが、王?は崔瑩の意見に従い反対論を無視し遠征を開始した[1]。実はこの出兵には遼東支配以外にも新興官僚勢力や李成桂ら武人の勢力を削るという目的があった[39]王?は遠征軍の勝利に興味がないと公言し、出征の日に激励の言葉を一つもかけなかった[4]。また、反乱に備えて遠征する武将らの家族は王宮に来させて人質(回軍の時には全員脱出した)とした[4]

1388年5月、遠征軍は鴨緑江河口の威化島に到達したが、大雨による増水で河を渡ることが出来ず、日が経つにつれて逃亡する兵士が後を絶たず、食糧の補給も難しくなっていた[1]。このような状況を理由に李成桂は撤退を要求したが、これも認められなかったため、李成桂は独自に撤退を開始した(威化島回軍[1]。回軍を聞いて遠方から2000名以上が李成桂を助けるべく馳せ参じた[4]。また民衆も回軍を歓迎し[4]、李成桂に希望を持つ歌が流行った[44]。一方の高麗朝廷は既に民から見放されており[4]、回軍の報せを受けた崔瑩が抵抗軍を組織しようとしたが集まる者は殆どいなかった[4]

6月1日に開京に着いた李成桂は、王?に遠征の責任を問い、崔瑩の処罰を要求した。しかし、王?は李成桂らを反逆者として、彼らを殺したものに褒賞を与えるという触書を出したため[4]、李成桂は交渉を諦めて王宮を攻め崔瑩を捕虜とした[4]。崔瑩は処刑されずに遠方に流され(二か月後に処刑されている)、王?は王の地位を失わなかったが、権力を失い名ばかりのものとなった[4]王?は王権を取り戻すべく、内侍80名に李成桂らの私邸を襲わせたが失敗して追放され[4]、子の王昌曹敏修らに擁立されて王位に就いた[4]

しかし、李成桂らに擁立された恭譲王に1389年、王位を奪われ[1]王昌王?は処刑された。恭譲王も朝鮮王朝樹立の2年後の1394年には李成桂の命令で処刑された(李成桂自身は王氏一族を内地に復帰させて自由に暮らすのを認めようとしていたが、臣下達の強い要請によって処刑せざるを得なかったとされる)[4]。このとき李成桂により王氏(高麗王家)一族の皆殺しも行なわれた。即位の後3年間王氏一族を巨済島などの島々に集めて監視し、1394年4月に一斉に海に投げたり斬殺したりして王氏を虐殺した。元々王氏一族ではなかったが高麗王家から姓を賜った者たちは死は免れたものの、本姓に戻るよう命じられた。王氏一族の一部は姓を変えて隠れることができたが、文宗により王氏掃討の令が解かれた後にも王氏一族の多くは復姓しなかったとされる。文宗の時になって隣人の密告で捕まった王氏が許され一族を継いだが、韓国統計庁が2000年に行なった本貫調査によると開城王氏の人口は2.0万人と極端に少なかった。高麗王家では日本の武家同様、後継者に危害の及ばぬように後継者以外の王子は出家させたり母側の姓にすることが一般的であり王氏の数は元々少なかった上、このときの皆殺しで王氏の数が激減したことも原因とされる。

政治の実権を握った李成桂、鄭道伝、趙浚らは親元的な特権階級、権力と結びつき腐敗した仏教勢力が私有地を拡大したために国庫が尽きている現状を痛烈に批判し、1390年から田制改革を強行した[1]

1392年7月、国家の方針を決定する都評議使司は新興官僚層が推戴した李成桂に即位を要請し、恭譲王を追放した[1]。「禅譲」の形式による新国家樹立であった[1]。李成桂は、「権知高麗国事」を正式に名乗ったが、「知」「事」が高麗を囲んでおり、「権」は日本の権大納言権中納言と同じで「副」「仮」という意味であり、「権知高麗国事」とは、仮に高麗の政治を取り仕切る人という意味である[45]。このように李成桂は、事実上の王でありながら、「権知高麗国事」を名乗り朝鮮を治めるが、それは朝鮮王は代々中国との朝貢により、王(という称号)が与えられたため、高麗がから王に認めてもらったように、李成桂もから王に認めてもらうことにより、正式に李氏朝鮮となる。小島毅は、「勝手に自分で名乗れない」「明の機嫌を損ねないように、まずは自分が高麗国を仮に治めていますよというスタンスを取り、それから朝貢を行い、やがて朝鮮国王として認めてもらいました」と評している[46]

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(1.1.李氏の出自)
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(1.3.後継者争いと失意の晩年)
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出典:Wikipedia
2019/07/31 18:00
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