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北里柴三郎
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1.人物
1.1.出生から
肥後国阿蘇郡小国郷北里村(現・熊本県阿蘇郡小国町)に生まれる。父の惟保(これのぶ、1829年 - 1902年)は庄屋を務め、温厚篤実、几帳面な性格であった。母の貞(てい、1829年 - 1897年)は豊後森藩士加藤海助の娘で幼少時は江戸で育ち、嫁いでからは庄屋を切りもりした。柴三郎の教育に関しては甘えを許さず、親戚の家に預けて厳しい躾を依頼した。闊達な性質で、柴三郎の指導者としての性格は母親譲りであろうとされる[6]。柴三郎は8歳から2年間、父の姉の嫁ぎ先の橋本家に預けられ、漢学者の伯父から四書五経を教わった。帰宅後は母の実家に預けられ、儒学者・園田保の塾で漢籍や国書を学び4年を過ごした。その後、久留島藩で武道を習いたいと申し出たが、他藩のため許可されなかった。実家に帰り父に熊本に遊学を願い出た。1869年、細川藩の藩校時習館に入寮したが翌年7月に廃止され、熊本医学校に入学した。そこで教師のマンスフェルトに出会ったことをきっかけとして本格的に医学に目覚めることとなった。特別に語学を教わり、3年間在籍したが、2年目からは通訳を務めている。マンスフェルト、職員、生徒の集合写真にはマンスフェルトの横に写っている[7]

1875年明治8年)に東京医学校(現・東京大学医学部)へ進学したが、在学中よく教授の論文に口を出していたため大学側と仲が悪く、何度も留年した。1883年(明治16年)に医学士となる。在学中に「医者の使命は病気を予防することにある」と確信するに至り、予防医学を生涯の仕事とする決意をし、「医道論」を書いた。演説原稿が残っている[8]。卒業時の成績は26名中8位であった[9]。その後、長與專齋が局長であった内務省衛生局へ就職した。

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(1.2.留学時代)
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出典:Wikipedia
2020/02/16 22:31
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