靖国神社
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10.靖国神社と文化
10.1.靖国神社が描かれた文物
靖国神社を描いた紙幣として小額政府紙幣がある。これは1938年(昭和13年)以降日本政府が50銭硬貨に使われていたを戦略物資として温存するために、富士山を描いた昭和13年銘のある政府紙幣に置き換えたものである。この紙幣では凹版印刷が用いられていたが、1942年(昭和17年)になって通貨需要が増大したため、民間の凸版印刷株式会社に製造させ、その際に靖国神社を描く紙幣に変更された。

この紙幣は、硬貨の発行年と同様に1942年(昭和17年)から1945年(昭和20年)まで4つの発行年号が記載されている。また最初の昭和17年銘は凸版5色刷りの高級な印刷方法を用いていたが、最後の昭和20年銘(実際には戦後になった翌年発行)は印刷に用いる資材の枯渇のためオフセット印刷に切り替えられている。靖国神社が描かれてはいるがGHQからは大目にみられて発行と流通が続けられたが、硬貨が発行されるようになったために1948年(昭和23年)8月31日を以て廃止された[114]

靖国神社を描いた郵便切手は4種類発行されている。そのうち普通切手としては、17銭切手(1943年(昭和18年)2月21日発行)、27銭切手(1945年(昭和20年)2月2日発行)、1円切手(1946年(昭和21年)3月ごろ発行)の3種が発行されている。いずれも書留料金用の高額切手であったが、戦時中のため印刷が粗悪である。最後の1円切手は戦後になって発行されたが、これは戦時中に計画されたものが製造および配給が遅れたために戦後になって発行されたものである。通常、切手発行の告示は官報によって行われるが、当時の他の切手と同様に告示を待たずに発売された。このため、公式にいつ発売されたかは現在も不明である(上記年月は最初に確認されたもの)。また1円切手は用紙が粗悪であるうえ、目打や裏糊もなかった。これは、製造工程の簡略化というだけでなく、印刷局が戦災にあったため、機械自体が使用できない状態に追い込まれていた事情もあってのことだった。

7銭(発行時の封書基本料金と同額)切手は1944年(昭和19年)6月29日に「靖国神社鎮座75周年」を記念して発行された記念切手であったが、戦時体制下であったため、通常の記念切手のサイズではなく、それよりも小さな普通切手サイズで発行された。なお印刷方法は戦時中としては異例のグラビア印刷であった。

靖国神社の切手は「少年航空兵」や「戦闘機飛燕」など戦意高揚のためにデザインされた他の切手とともにGHQによって「超国家主義的かつ軍国主義的」と判断され1947年(昭和22年)に既に在庫が無かった7銭記念切手を除く3種が通称「追放切手」として使用禁止処分がとられた。

郵便局が郵便切手へ押印する消印のうち、その郵便局近辺の風物等を描いた風景印(風景入通信日付印)があるが、九段郵便局の風景印には靖国神社拝殿と桜を描いている。使用開始は1952年(昭和27年)5月10日であるが、同じ日に麹町郵便局も同じ図案の風景印の使用を開始している。ただし、麹町郵便局は1983年(昭和58年)7月26日から日本武道館を描く図案に変更しており、九段郵便局だけが靖国神社に縁のある図案の風景印を現在も使用している。この消印は公印ではあるが、個人が52円以上の額面の切手もしくは葉書を提示すれば記念押印に応じてもらえるし、郵便物に押印して差し出すことも出来る。

東京だョおっ母さん」(島倉千代子
〔近代デジタルライブラリ(国会図書館) にて「武江年表」で検索〕
正編と続編が在り、江戸周辺の出来事を綴ってある。編者は徳川家斉将軍と同時代の江戸神田の斎藤幸成(さいとうゆきしげ、号:月岑(げっしん))で、他に『江戸名所図会』を完成させ、『東都歳時記』を著している。1881年(明治14年)に長男の喜之助と甫喜山景雄の手で増補改訂されたものが刊行された。 <一部引用>明治二年:
夏の頃より、九段坂上馬場の後へ招魂社創立あり。是は近年、諸国ならびに近在・東京上野、其外戦争のみぎり、報国尽忠のともがら、戦士の亡魂を慰給はんとの御沙汰として、此御造営ありけるよしなり。 『木戸日記』は招魂社の発案者で社地内に住んでいた木戸孝允によって書かれ、『廣澤日記』は長州財閥の大物、参議広沢真臣によって書かれた。双方とも、招魂社の土地の遣り取り等、主に政治行政面での記述が見られる。 〔近代デジタルライブラリ(国会図書館)での閲覧〕[115]
佐賀の西南戦争から日露戦争に至るまでに合祀された十萬の同朋に対する国民の誠意をもった慰霊の心掛けを期待して神社のあらましを公にする、とされている。
内容は、神霊(合祀の内容と神霊数)、神宝(大和錦:赤地青地各一巻、御紋章付金灯籠:一対、宝剣:數振、宝鏡:數面)、祭式(宮司を中心とした祭式手順などの詳細)、正遷宮の式、御祭文(ごさいもん:元は「宣命〔せんみょう〕」と言われ、天皇陛下によって御使いが立てられた御祭りの際に、勅使が霊前で読み上げる文章)、招魂祭詞、皇室と神社、神社の沿革、神社奉仕の宮人、境内の建物、境内の庭園、九段の櫻〔さくら〕、神社と軍人、神社区国民、神社の奉仕者の歌、編纂の趣旨、の構成となっている。 〔近代デジタルライブラリ(国会図書館)での閲覧〕[115]
1909年(明治42年)に靖国神社第三代宮司に着任した山口県出身の賀茂百樹が、官庁文書や関係者からの聞取りや日誌などから著作編集したが、明治12年以前の記録は特に乏しいとしている。
内容としては、勅使派遣等に関する記述、売却地、予算規模、に関する記述等、原資料や当時の他資料とは違う点も多く見られる。著者の主観による記述も散見される。市場に出回る書籍や研究などは、この『靖國神社誌』を元に書かれた書物も少なくない。 1879年(明治12年)6月4日に、別格官幣社として列せられ、それと共に、靖国神社と改称された。 1905年(明治38年)から2年間、雑誌『ホトトギス』に連載された夏目漱石の『吾輩は猫である』では、幼い女の子達の会話に、それぞれが「招魂社に嫁に行く」と話しているシーンがある。当時は既に「靖国神社」と改称されているはずであるが、古い名で馴染まれていた様子が窺(うかが)える。 1917年(大正6年)の出版である、田山花袋の『東京の三十年』には、「招魂社」で年に二回春秋に行われる見世物小屋や屋台などの様子が書かれている。
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出典:Wikipedia
2018/07/14 00:00
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