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務臺光雄
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1.来歴・人物
1.6.巨人軍との関係
読売の最高実力者だった1970年代から90年代前半にかけて、巨人の実質的なオーナーとして権力をふるい、「強い巨人の時代」を演出した。V9時代のように毎年優勝することは出来なくなったが、Bクラスも少ない安定したチームであった。

1974年、10連覇を逃した川上哲治が巨人軍の監督を勇退し、現役引退したばかりの長嶋茂雄が新監督に就任。6年間で2度のリーグ優勝を果たしたものの、長嶋時代の後期は3年連続V逸に加え、務臺が病気療養中で不在時に正力亨が引き起こしたいわゆる空白の一日事件などもあり、務臺は亨や長嶋への不信感を募らせていった。特に病気療養中で不在時に起こった空白の一日事件は、「巨人軍は読売の巨人軍じゃない。大衆の巨人軍だ」と常々言ってきた務臺にとって大きな衝撃だったようであり、亨への怒りは頂点に達した。1980年のシーズン終了後、長嶋を成績不振を理由に解任し、藤田元司を後任監督に据えた。しかし、この決断は多くの巨人ファンからの反発を招くこととなり、それが原因で読売新聞の販売部数を減らしたといわれる。務臺の長嶋への不信感は終生変わることはなく、長嶋の巨人復帰は務臺が存命中タブーであった(長嶋が巨人軍の監督に再び就任したのは1993年で、務臺が死去して2年後のことだった)。

なお、藤田の後任監督である王貞治1988年シーズン中での解任を決めたのも務臺である。この時、亨は王続投を念頭に置いていたが、務臺になかなか伝えられず、それを見て務臺はフロントの意向は解任にあると判断し、王解任を決めてしまったという(「巨人軍は日本一にならなくてはならない」と日本一になれなかった理由から王を解任したという説もある)。王の後任は、再び藤田を起用した。

藤田が「務臺さんがいなくなって、巨人がおかしくなっちゃった」と語る[4]など、1970年代から1980年代の巨人を評価する声もある。

甥は巨人軍多摩川グラウンド(現:多摩川緑地広場硬式野球場)のグラウンドキーパーを長年務めた務臺三郎、姪はその妹で後楽園球場の名ウグイス嬢であった務臺鶴。

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出典:Wikipedia
2019/09/15 19:01
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