平成
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1.改元
1.1.昭和からの改元

経緯[編集]


1989年昭和64年)1月7日昭和天皇崩御に伴い皇太子明仁親王が第125代天皇即位した。これを受け、同日に元号法に基づき改元政令が出され、その翌日を「平成元年1月8日」とすることにより改元がなされた。元号法によって改元された最初の元号である。なお、崩御を前提とした手続きは事前に行なえないため、改元の際は崩御当日に正式な手続きに入り、翌日に改元が行われた。崩御当日に電話で正式な嘱託を行った後の「元号に関する有識者会議」は約20分間意見交換しただけで、重々しい雰囲気の中で慌ただしく新元号は決められたという[1]。ただし水面下で準備は進められており、1988年(昭和63年)9月には元号は最終候補の3案に絞り込まれていた[2]

内閣内政審議室は、昭和天皇崩御の日(1月7日)の早朝、十ほどの候補から最終的に「平成(へいせい)」「修文(しゅうぶん)」「正化(せいか)」の三案に絞り、竹下登首相(竹下内閣)の了承を得た。その日の午後、「元号に関する懇談会」(8人の有識者で構成)と両院正副議長に「平成」「修文」「正化」3つの候補を示し、意見を求めた。この時、当時の内閣内政審議室長であった的場順三が、とっさに、明治以降の元号のアルファベット頭文字を順に並べ、「MTSの後はHが据わりが良いでしょう」と言った[3][4]

その後に開かれた全閣僚会議でも「平成」で意見が一致し[4]、同日14時10分から開かれた臨時閣議において新元号を正式に「平成」と決定した。14時36分、小渕恵三内閣官房長官が記者会見で発表した。

只今終了致しました閣議で元号を改める政令が決定され、第1回臨時閣議後に申しました通り、本日中に公布される予定であります。
新しい元号は、『平成(へいせい)』であります ? 内閣官房長官 小渕恵三
と言いながら、河東純一揮毫した新元号「平成」を墨書した台紙を示す姿は、新時代の象徴とされた(#元号発表も参照)。なお、新元号の発表の際に、口頭での説明は難しいので、視覚に訴えるように「書」として発表したのは、石附弘秘書官のアイディアである[4]

同日、「元号を改める政令」(昭和64年政令第1号)は新天皇の允裁(いんさい)[6]を受けた後、官報号外によって公布され、翌1月8日から施行された。また、「元号の読み方に関する件」(昭和64年内閣告示第6号)が告示され、新元号の読み方が「へいせい」であることが明示された。

明治から大正、大正から昭和への改元の際と異なり[7]、平成改元の際に翌日から施行された背景として、当時は文書事務の煩雑化・ワードプロセッサを初めとするOAに伴うコンピュータプログラムの変更等を行うためと報道された。

「平成」提案に関する事項[編集]


最終候補の3案の一つであった「平成」を提案したのは、東洋史学者の山本達郎東京大学名誉教授)である[8][2][4]

内閣内政審議室長(当時)として新元号選定に関わった的場順三[8]によると、元号の最終候補3案は極秘裏に委嘱していた山本、宇野精一目加田誠の3氏の提案によるものだという(目加田が「修文」を宇野が「正化」を提案したことを後に認めている)[9]。『文藝春秋』での佐野眞一(作家)の取材に対して、的場は「元号は縁起物であり改元前に物故した者の提案は直ちに廃案になる」と述べ、それ以前に物故した諸橋轍次貝塚茂樹坂本太郎らの提案はすべて廃案になったとしている[9]

的場内閣内政審議室長は代わりの学者を秘密裏に探すため文部省職員と2人だけで選定に入ったが、既に天皇の容態悪化を受けてマスコミの報道が過熱しており、学者の自宅前には多数の記者が張り込むなどしていたため、本人が参加する学会に紛れ込んでコンタクトを取ったという[10]

渡部恒三によると「平成」の元号は改元時の竹下登首相ら日本国政府首脳が決定前から執心していたという[9]。また竹下内閣当時の内閣官房副長官(政務担当)であった小沢一郎は『(竹下)総理のところに上がってきた案は「平成」と「化成」の二つであり、総理と小渕(官房長官)さんと僕(小沢)の3人で「平成」を選んだ』ことを証言している[11]

竹下首相が総理を降りた後、1990年(平成2年)1月に行った講演の際には非公式ながら「平成」は陽明学者・安岡正篤の案であったと述べたとされる[12]。しかし、安岡も昭和天皇の崩御前に物故しているため安岡の発案ということは有り得ない[13]。的場は「実際、『平成』の考案者は安岡正篤氏という誤った説も広まっていたので、歴史の真実を歪めないためにも、新元号選定の経緯を明かすようになりました」と述べている[4]

典拠[編集]


新元号の発表時に小渕内閣官房長官が述べた「平成」の典拠は漢籍で、以下の通りである。※漢文中の太字箇所から元号が採られた。

史記』五帝本紀 帝舜?
(内かに外る)

書経(偽古文尚書)』大禹謨地
(地かに天る)

「平成」は「国の内外、天地とも平和が達成される」という意味である[14]。日本において元号に「成」が付くのはこれが初めてであるが、「大成」(北周)や「成化」()など、外国の元号や13代成務天皇の諡号には使用されており、「平成」は慣例に即した古典的な元号と言える。

江戸時代最末期、「慶応」と改元された際の別案に「平成」が有り[15][16]、出典も同じ『史記』と『書経』からとされている[17]

なお「平成」の決定の際には専門家からは「出典箇所(書経の該当項目)は偽書の偽古文尚書であり、相応しくない」とする意見もあった。

発表[編集]


小渕内閣官房長官(当時、後に首相)が、総理大臣官邸での記者会見で使用した台紙に『平成』と文字を揮毫したのは、内閣総理大臣官房(当時。中央省庁再編後は内閣府大臣官房)人事課辞令専門職の河東純一である。

記者発表の20分ほど前、「平成」と鉛筆で書かれた紙片を渡され新元号名を知る。その後、河東自らが用意した4枚の奉書紙にそれぞれに平成と書き、4枚目を額に入れ、ダンボール風呂敷で梱包したものが小渕内閣官房長官の元へと運ばれた。河東本人談として、初めて平成と知った時、「画数の少ない字は形が取りにくく、書きにくい」と思ったそうである。また、4枚目を選んだのは上手い下手に関係なく、初めから4枚目を提出するつもりだったとも語っている。新元号を墨書する場所は、予め同官房内政審議室の会議室と決められていた。入室した際の同室では数人が別の作業を行っていたので、頼んで作業机の片隅を空けてもらい、「平成」を書き上げた。作業机は比較的高く、椅子はパイプ椅子で、周囲もやや喧騒であったため、非常に書きにくかったそうである[18]

小渕内閣官房長官の秘書官だった石附弘も「大正」からの改元時の「昭和」の発表時にはラジオでは漢字の雰囲気を伝えられず、「光文事件」などの誤報もあり大衆の期待感が高まらなかったことを受け、テレビの生中継により「新時代への期待感や雰囲気」を醸成できると考えており、テレビ会見を重視していた[10]。揮毫した河東も「確たる未来と新時代への力強さを見せるため」あえて文字のかすれを抑えるなど映像が流れた際の見栄えを考慮していたという[10]。文字だけではなく披露する際の動作も事前に考えており、印象を残すため半紙を顔の横に掲げることにした[10]。また、当初は半紙をアクリル板に貼り付ける予定だったが、直前にマスコミに相談したところフラッシュが反射して見えないとの指摘を受け、「半紙プラス白木の枠組み、アクリル板なし」の構成となった[10]

河東は2005年(平成17年)12月に職務(20万枚以上に及ぶ官記・位記・辞令および表彰状等の作成)の功績を認められ、第18回「人事院総裁賞」個人部門を受賞した[19]

発表後の奉書紙は平成改元時の竹下首相と小渕内閣官房長官に贈呈されたが、当時は公文書管理法が制定される前で奉書紙の取り扱いについても取り決めが無かったため一時は行方不明となっていた[20]。その後、竹下の孫である歌手・タレントのDAIGO[21]が「(母方の実家の竹下家に)『平成』の奉書紙がある」として、竹下の私邸に飾られていた奉書紙をテレビ番組で披露[22][23]したことで行方が判明し、国立公文書館が竹下家と連絡を取って「平成」の奉書紙を2009年9月に借り受け、翌2010年3月に正式に寄贈されることとなった[20]。これを受けて平成の次の元号の奉書紙は発表当初から公文書として扱うことが決定した[20]

国立公文書館では「平成(元号)の書」としてスキャン画像が公開されているが、原本は閲覧できない[24]。なお国立公文書館のショップではスキャン画像を元にしたクリアファイルが販売されている[25]

元号発表以前から存在した「平成」[編集]


「平成」発表後、それにちなんで命名された団体名や地名などは多い(後述の「平成を冠するもの」参照)。「平成」の選定過程で、政府は団体・企業や個人の名前に使われていないかを調査したが、インターネットによる事物検索が現代のように普及していない時代であったこともあり、事前調査にも限界が生じて元号と同じ漢字表記となる人名や地名の把握は不完全であった[10]

そのため、人名では「たいら しげる」という読みの男性や、地名では「へなり」と読む岐阜県武儀町(現・関市)の小字などが、元号の発表以前から存在した「平成」として確認されている。元号の選定に携わった的場は中華料理店の屋号まで調べていたが小字までは手が回らず、これらの偶然の一致について「仰天した」と回想している[26][10]

このほか、三重県埋蔵文化センターが開催する「おもろいもん出ましたんやわ展」の2015年(平成27年)開催分で、松阪市の朝見遺跡から出土した「平成」と書かれた平安時代中期の墨書土器が公開された[27][28][29][30]櫛田川の氾濫を鎮めるための祭事に使われたと推定している。

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(1.2.平成からの改元)
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出典:Wikipedia
2019/05/21 16:01
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