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文禄・慶長の役
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4.動機に関する諸説
秀吉が明の征服とそれに先立つ朝鮮征伐つまり「唐入り」を行った動機については古くから諸説が語られているが、様々な意見はどれも学者を納得させるには至っておらず[30]、これと断定し難い歴史上の謎の一つである。戦役の本編に入る前に動機に関する諸説について述べる。主なものだけで以下のようなものがある[注 34]

1591年(天正19年)正月、征明の遠征準備を始めさせた秀吉であったが、その直後(日付の上では2日後)に弟である豊臣秀長が病死するという不幸があり、さらに8月には豊臣鶴松の死という大きな悲しみに遭遇した。秀吉は相次ぐ不幸に悲嘆に暮れたが、その極みに至って、却って自らの出陣と明国を隠居の地とする決意を新たにしたと、秀吉の同時代人近衛信尹は『三藐院記』で書いている[31]。征明の決意を公に表明したのは愛息の死の直後であった。林羅山はこれを受けて『豊臣秀吉譜』において「愛児鶴松を喪ったその憂さ晴らしで出兵した」という説を書き[32]、『朝鮮征伐記』など様々な書籍でも取り上げられている。しかし、秀吉の心情としてはそれも当たらずといえども遠からずであったかもしれないが、見てきたように計画はそれ以前からあってすでに実行段階に入っていたのであり、順序から考えればこれを動機とは呼べないのである。東洋史学者池内宏は批判して「後人のこじつけ」であると評した[30]

遠征動機を秀吉の功名心とする説の根拠は、秀吉が朝鮮に送った国書に「只ただ佳名を三国に顕さんのみ」と端的にその理由を述べている点にある。このため動機の一つであることは容易に推定できるのであるが、江戸前期の儒学者貝原益軒[注 35]が、欲のために出兵するは“貧兵”であり、驕りに任せた”驕兵”や怒りに任せた“忿兵”でもあって、天道に背いたが故の失敗であったと批判したのを皮切りとして、道義に適わぬことがしばしば問題とされた。道学者の道徳的批判に過ぎないと言えばそれまでだが、功名心に対する価値観は(第二次世界大戦の)戦前と戦後でも劇的変化があり、動機と評価を合わせて考える場合は、英雄主義による賛美が大義なき戦争という批判に変わったことに留意すべきであろう。歴史家徳富蘇峰は秀吉を英雄と賛美しつつも遠征動機を端的に「征服欲の発作」と述べた[33]

江戸後期の儒学者である頼山陽も、国内の動乱を外に転じるための戦役だったという説を唱えて有名だった。明治期の御雇教授マードックも、国内の安定のために諸大名の資源と精力を海外遠征で消費させる方策であったという見解を示した。『日本西教史』の著者ジャン・クラッセの場合は「太閤は日本の不平黨が叛逆すべき方便を悉く除去せんと欲し、その十五萬人を渡海させしめ」船を呼び戻して「軍隊再び日本に帰るを妨げ、飢餓困難に陥り死に就かしめんと欲する」[34]とまで細かく書いている。しかし、この説の矛盾は、秀吉が遠征の失敗を予期したことを前提にしている点である。実際に出征した諸将を見れば、子飼い武将を含む譜代や外様でもより身近な大名が中心で、徳川家康のごとき最も警戒すべき大老は出征しなかった。豊太閤三国処置などから判断すると出征した諸将に大きな報奨・知行を与えるつもりで、逆に秀吉は遠征の成功を信じて疑わなかったのである。池内宏はこれを「机上の空論」と評し[30]、(敗北主義的な頼山陽の説が気に入らない)蘇峰も国内の諸大名に「秀吉に喰って掛るが如き気概はなかった」として「架空の臆説、即ち学者の書斎的管見」と完全否定している[35]

急成長を遂げてきた豊臣家は、諸将の俸禄とするために次々と新たな領地の獲得を必要としていたという説は、戦国大名としては当然のこととして当初より検証なく受け入れられてきた。功名を立てることと領土獲得はしばしば同じことであるため両説は重複して主張されることがあるが、歴史学者中村栄孝は秀吉は名声不朽に残さんがために「当時わが国に知られていた東洋の諸国をば、打って一国と為すのを終局の希望として、海外経略の計画は進められていた」[36]と大帝国建設が目的だとし、「政権確立のため、支配体制の強化を所領と流通の対外的拡大に求め、東アジア征服による解決を目指していた」[30]とも述べた。また、中村は「その目的も手段も、殆ど海内統一に際して群雄に臨んだ場合と異なることがなかった」[36]と書状等から分析し、諸国王が諸大名と同様に扱われたことを強調。蘇峰も秀吉は朝鮮を異国とは思わず「朝鮮国王は、島津義久同様、入洛し、秀吉の節度に服すべきものと思った」とした[37]。これらの見解は、天下統一の達成が日本列島に限られるという現代の国境概念の枠中で考えることを否定するものでもあった。

秀吉の戦略は可能な限り平和的手段で降服させるように努めてそれに従わないときにのみ征伐するというものであったが、海外において明との勘合貿易の復興や通商貿易の拡大を目指したときに、朝鮮が明との仲介要請を拒否したことが、朝鮮出兵の理由であったという説は、日本史学者田中義成辻善之助、柏原昌三など多くの学者が唱えてきたものである。秀吉の平和的外交を強調する一方、侵略の責任の一端が朝鮮や明にあったことを示唆する主張として、しばしば批判を受けた説であったことも指摘せねばならないが、この説の問題点はむしろ貿易が当初からの目的と考えるには根拠が薄いことである。

歴史学者の田保橋潔が「どの文書にも勘合やその他の貿易についての言及はない」[30]と批判したように、肝心の部分は史料ではなく想像を基にしている。蘇峰は「秀吉をあまりにも近世化した見解」ではないかと疑問を呈した[38]。日明交渉において突如登場した勘合貿易の復活の条件が主な論拠となるが、中村栄孝が「明國征服の不可能なるを覚った後、所期の結果とは別に考慮されたものに他ならない」[39]と述べたように当初からの目的だったか疑わしいうえに、秀吉が万暦帝の臣下となることを前提とする「勘合」と「冊封」の意味を秀吉本人が理解していなかったという説[23]もあって、慶長の役の再開理由が単に朝貢(勘合貿易)が認められなかっただけでなく、朝鮮半島南部領有(四道割譲)の拒否にもあったのであればこの説は成り立たないと指摘された。ただし、名古屋大学名誉教授三鬼清一郎は領土拡張説と勘合貿易説は二者択一ではないと主張してこれに異議を唱え、対外領土の拡張も対明貿易独占体制の企ての一部であるとした。また歴史学者鈴木良一は、豊臣政権の基盤は弱く商業資本に依存していたと指摘し、商業資本による海外貿易の拡大要求が「唐入り」の背景にあったとした[30]

国内の統一や権力集中あるいは構造的矛盾の解決のための外征であったとする説も多数存在するが、豊臣政権の統治体制が未完で終わったために検証できないものが多いのが難点である。

日本史学者である佐々木潤之介の話によると、「全国統一と同時に、集権的封建国家体制建設=武士の階級的整備・確立と、統一的な支配体制の完成に努力しなければならず、統一的支配体制の完成事業は、この大陸侵略の過程で推進した」[30]と指摘した。同じく朝尾直弘も家臣団内部の対立紛争を回避し、それらを統制下におくための論理として「唐国平定」が出てきたとし、惣無事令など日本国内統制政策の際にも「日本の儀はいうに及ばず、唐国までも上意を得られ候」という論法を用いていたことから、大陸を含む統合を視野にいれていたとし[40]、朝鮮出兵による軍賦役を利用して身分統制令を課して新しい支配=隷属の関係を設定したと論じた[30]。貫井正之教授は「大規模な海外領土の獲得によって、諸大名間の紛争を停止させ、全大名および膨張した家臣団をまるごと統制下に組み込もうとした」と論じ、構造的矛盾を解決する必要不可欠なものであったと主張した[30]

日本史学者の山口啓二も「自らの権力を維持するうえで諸大名への『際限なき軍役』の賦役が不可避であり、戦争状態を前提とする際限なき軍役が統一戦争終結後、海外に向けられるのも必然的動向である」と主張し、「秀吉の直臣団は少数の一族、子飼いの武将、官僚を除けば、兵農分離によって在地性を喪失した寄せあつめの一旗組が集まって軍隊を構成しており、戦功による恩賞の機会を求めていたので、豊臣氏自体が内側で絶え間なく対外侵略を志向して、麾下の外様大名を統制するために彼らを常に外征に動員し、豊臣氏の麾下に管理しておかなければならなかった」と説明した[30]

これは統一が軍事的征服過程であるという従来見解を否定する点が特徴の説で、歴史学者藤木久志は、天下統一=平和を目指す秀吉にとって惣無事令こそが全国統合の基調であったとし、海賊禁止令は単に海民の掌握を目指す国内政策だけでなく海の支配権=海の平和令に基づいており、全ての東アジア外交の基礎として位置付けられたとし、「国内統一策つまり惣無事令の拡大を計る日本側におそらく外国意識はなく、また敗戦撤退の後にも、敗北の意識よりはむしろ海を越えた征伐の昂揚を残した」[30]と述べた。対明政策は勘合の復活、すなわち服属要求を伴わない交易政策であるが、朝鮮・台湾・フィリピン・琉球には国内の惣無事令の搬出とでもいうべき服属安堵策を採るなど、外交政策は重層性が存在し、秀吉は「朝鮮に地位保全を前提とした服属儀礼を強制」して従わないため出兵した。結果的に見れば戦役は朝鮮服属のための戦争であるが、それも国内統一策の延長であったと主張した[30]

下克上で生まれた豊臣政権は、従来の東アジアの秩序を破壊する存在であったとする説。明・中国を中心とした東アジアの支配体制・秩序への秀吉の挑戦であったという考えは、戦前においては朝鮮半島の領有を巡って争った日清戦争の前史のように捉えるものであり、明治時代前後に支持を得た。しかし頼山陽の『日本外史』にある秀吉が日本国王に冊封されて激怒したという有名な記述は近代以前に流布された典型的な誤解[23]であり、基本的な史実に反する点があった。史料から秀吉自身が足利義満のように望闕礼を行ったと十分に判断でき、史学的には秀吉が意図して冊封体制と崩そうとしたという論拠は存在しないといっていい。

しかし一方で、16世紀と17世紀の東アジアにおける明を中心とする国際交易秩序の解体によって加熱した商業ブームが起き、この時期に周辺地域で交易の利益を基盤に台頭した新興軍事勢力の登場を必然とし、軍事衝突はこの「倭寇的状況」が生み出したと言う岸本美緒教授や、「戦国動乱を勝ちぬいて天下人となった豊臣秀吉が、より大きな自信と自尊意識をもって、国際社会に臨んだのは、当然のなりゆき」[30]という村井章介名誉教授など、秀吉が冊封をどう考えていたかに関係なく、統一国家日本が誕生したこと自体が東アジアの国際情勢に変動を促した要因であったとする東アジア史からの指摘もある。論証も十分ではないという批判[30]もあるが、動機とは異なるものの世界史の中での位置づけという観点からこの説は一定の意味を持つ。

また、ケネス・スオープ米ボールステイト大学準教授(現・南ミシシッピ大学教授)が「日本と朝鮮の間の戦争だとの見方はやめるべきだ」として「明(中国)を中心とした東アジアの支配体制・秩序への秀吉の挑戦。これは日本と中国の戦争だ。秀吉軍の侵攻直前に明で内乱が起きたため、明はすぐに兵を送ることができなかったが、朝鮮の要請ではなく、自分の利益のために参戦した」と述べ[注 13]地政学的見地から日中衝突の必然性をもって説明する学者もいた。

ルイス・フロイスやジャン・クラッセ、『東方伝道史』のルイス・デ・グスマンなど同時代の宣教師達が主張した説で、「基督(キリスト)信者の勇を恐れ之を滅せんことを謀り、戦闘の用に充て戦死せしめんと欲し、若し支那を掌握せば基督信者を騙して支那に移住せしめん」[41]と秀吉が考えていたという。

戦役がバテレン追放令やキリシタン弾圧と重なり、同じ頃フィリピンやインドに伸ばした秀吉の外交が彼らの目にはキリスト教世界全体に対する攻撃と映っていた可能性はあるが、小西行長を筆頭としてキリシタン大名は排斥されておらず、そのような事実はなかった[42]。動乱外転説に似ているが、排斥対象がキリスト教徒に限定されているところに特色がある。

秀吉が元寇の復讐戦として文禄慶長の役を起こしたという説は、辻善之助が「空漠なる説」[30]と一蹴しており、事実とはかけ離れたものである。しかし、特に根拠のない俗説の類であるとしても、朝鮮の書物においても交渉当事者であった景轍玄蘇が言及していたことが記録されており、信じる者は当時からいたようである。

異端の儒学者山鹿素行が主張したもので、神功皇后の頃より「凡朝鮮は本朝の属国藩屏」なのだから従わぬ朝鮮を征伐して「本朝の武威を異域に赫(かがやか)すこと」は至極当然であるというもの[43]。功名心説(好戦説)が道義的批判を受けた反撥から生まれた儒者的論法だが、動機や原因というよりも単なる称賛であり、しかも朝鮮征伐は本来の目的ではなく秀吉に古代の知識があったかも疑わしいとして、国家主義者の蘇峰すら「恰好たる理屈を当て嵌めたものに過ぎぬ」[44]と評した。


スペイン脅威説

フィリピンを支配していたスペインが明と朝鮮を征服し両国軍勢を使って日本へ進攻する可能性があり、脅威であると感じた秀吉がスペインに対し日本の軍事力を見せつけ牽制しつつ、朝鮮を征服する事で緩衝地帯を確保しスペインに備える事が目的であった。明の征服にも秀吉は言及している様だがその真意は不明である。高麗征服後の元寇は当時の日本人にとっても周知の史実である。なお、スペインは英国に敗れた為に明・朝鮮・日本への進攻は行われなかった。蛇足だが、日清戦争と日韓併合はロシアの脅威が原因で目的は同様である。

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(3.4.朝鮮の内情)
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(5.1.秀吉の唐国平定構想)
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出典:Wikipedia
2020/02/02 05:30
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