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文禄・慶長の役
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13.影響
13.4.朝鮮半島への影響
朝鮮半島では不平両班や被差別階級、困窮した農民、盗賊による反乱、蜂起が起きた。および朝鮮軍によるその鎮圧、また朝鮮王朝内部の政争による粛清や処刑などが行われ、朝鮮社会の矛盾が噴出した[410]

李氏朝鮮は極端に中央集権化が進み階級差別と過酷な搾取によって農民が毎年春には必ず飢える(「春窮」)ほどで、国土の開発も怠っていた。また、流通経済が未発達で民衆の生活は自給自足が基本であり銀などの貨幣による取引が成立せず朝鮮民衆とは物々交換などで食料の調達を行わなければならなかった。戦争が開始されると、朝鮮・明軍・日本軍が食料の現地調達を行った。食料不足と治安悪化のために農民が耕作を放棄することで流民となった。

明軍の兵糧供給は李氏朝鮮側が提供したため[注 98]、朝鮮政府は過酷な食料調達を行った。このため明軍の略奪と合わせて日本軍が侵攻していない平安道も荒廃して人口が激減している。また朝鮮軍より明軍に優先的に食料供給が行われたことから、朝鮮軍の戦意低下は少なからぬものがあった。朝鮮に駐屯した明軍による朝鮮民衆に対する無秩序な略奪なども横行し、朝鮮の民衆は日本を一番の侵略者としながらも、抑圧してきた朝鮮王朝に反乱を起こし、明軍も第二の侵略者であるとして憎んだ。そのため、豊臣軍の首都漢城府に到着より以前に逃亡するために朝鮮王を乗せた馬車が城門から出発より前に、朝鮮の民らが宮殿の中に侵入朝鮮王の財産を入れてあった倉庫を略奪した。それだけでなく、景福宮、昌徳宮、昌慶宮など三つの宮殿と6つの政府建築物など大小官庁に放火した。特に身分差別に苦しんだ朝鮮の下層民は混乱に乗じて、不満を持っていた朝鮮王朝の官庁や身分を示す書類の所蔵倉庫を焼き払ったためとされる。民衆の放火によって煙と炎が空に上り、1ヶ月経っても火災が続いたほどだった。当時、漢城の王宮と官庁が放火された情況を証言した李曁(大司諫)は「民衆の心を見れば賊の刃よりも残酷だから、とても恐ろしい」との記録している[411][412]。李曁は煬帝太宗の故事を引用しながら、中国の大軍も高句麗に侵攻したが勝てなかった反面、朝鮮が日本軍の攻勢に無残にやられたことは民心が乱れて離反して久しいし、諸将がうわさだけ聞いても逃走したせいで進撃できなかったためと指摘し、支配層と民衆間の乖離や綱紀の緩みを嘆している。

戦功の証明としてはなそぎも行われたが、当初は日本の国内戦同様に非戦闘員である民衆は保護の対象であり殺戮は禁止されていた。慶長の役においては鼻の数で戦功が計られ、老若男女を問わず非戦闘員も対象とされたとされる。削がれた鼻は軍目付が諸大名から受け取り、塩漬けにした上で日本に送られ、のちに耳塚にて弔われたとされる[413]。朝鮮軍に投降し捕えられた日本の将兵(降倭)は当初すぐに処刑されていたが、降倭を利用することを目的として1591年10月に降倭を勝手に殺すことを禁じる命令が出された。以後、降倭のうち砲術や剣術などの技能を有する者は訓錬都監や軍器寺に配属され、降倭からの技能習得が図られた。これにより日本の火縄銃の技術が朝鮮に伝わることとなった。また特殊技能のない降倭は北方の国境警備兵や水軍の船の漕ぎ手とされた。降倭の中には朝鮮王朝に忠誠を誓って日本軍と戦うなどして、朝鮮姓を賜り優遇されて朝鮮に定着する者もいた。

戦役以後、朝鮮では日本に対する敵意が生まれ、平和な貿易関係を望む対馬の宗氏も朝鮮王朝に強く警戒され、日本使節の上京は禁じられ、貿易に訪れた日本人も釜山に設けられた倭館に行動を制限された。一方、朝鮮の両班階層(支配層)の間では明の援軍のおかげにより朝鮮は滅亡を免れたのだという意識(「再造之恩」)が強調され、明への恩義を重視する思想が広まり、属国としての立場が強くなった。これは中国との間での朝鮮外交の針路に多大な影響を与えることとなった。

また、文化面でも朝鮮半島に多大な影響をもたらした。唐辛子が文禄・慶長の役の日本軍によって朝鮮半島にももたらされ、キムチ等の韓国・朝鮮料理の礎を築いた。また軍事面では、多くの火器の製造・運用技術が日本人から伝わり、刀剣類についても日本刀を原型とした倭刀等の派生武具が作られた。現在でも多くの城郭跡が朝鮮半島各地に残され日本人による統治の足跡を残している。文禄・慶長の役は現在の朝鮮半島国家(朝鮮民主主義人民共和国大韓民国)における反日感情の原点とされる。

朝鮮と後金・清への服属[編集]


朝鮮と明が文禄・慶長の役によって国力を疲弊させると、女真族のヌルハチが台頭し、1616年までにからの独立し、アイシン国(aisin gurun, 金国。後金)を建国した。1619年の明とアイシン国の戦争であるサルフの戦いで、金は明に勝利する。朝鮮は援軍を明に送っていたが、金に降伏し「朝鮮は戦う意志は無く、明の強制的な要請によって援軍を送った」と弁明した。ヌルハチはこれを許し、後金は朝鮮侵攻を行わなかった。しかしその後、朝鮮でクーデターが起き、反金・親明政策をとるようになる。1624年仁祖に対する李?の反乱が起き、すぐ鎮圧されたが、後金に逃げ込んだ反逆者が朝鮮侵攻を進言、ホンタイジが1627年に朝鮮に侵攻する(丁卯胡乱)。後金軍が漢城に到達すると、仁祖は降伏し、後金を兄、朝鮮を弟とする兄弟国としての盟約、李氏朝鮮は王族を人質として差し出すことなどが合意された。しかし、朝鮮には反後金感情が強く残った。

1636年に後金がと国号を変更し、朝鮮に対して清への服従と朝貢、及び明へ派遣する兵3万を要求してきた際に朝鮮はこれを断り、清は12万の軍で朝鮮に侵入した(丙子の乱)。朝鮮側は45日で降伏し、朝鮮は以後、清の属国となった。仁祖はホンタイジに対し三跪九叩頭の礼をし、清皇帝を公認する誓いをした(大清皇帝功徳碑)。清への服属は日本が日清戦争で清に勝利し、朝鮮が清の冊封体制から離脱する1895年まで続いた。

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出典:Wikipedia
2020/02/26 05:00
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