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文禄・慶長の役
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13.影響
13.2.日本国内情勢への影響
休戦を挟んで6年に及んだ戦争は、日本・明・朝鮮の三国に重大な影響を及ぼした。

出兵前後に生じた影響[編集]


留守中の大名領地に太閤検地が行われ、豊臣政権の統治力と官僚的な集団が強化された。しかし戦後にはこの戦争に過大な兵役を課せられた西国大名が疲弊し、家臣団が分裂したり内乱が勃発する大名も出るなど、かえって豊臣政権の基盤を危うくする結果となった。

また、出兵に必要な武器・弾薬・兵粮・戦夫の多くは大名の負担であり、その負担は直接出陣していない領内の家臣や百姓に転嫁されただけでなく、実際の戦夫として百姓の動員が行われた。このため、農村では動員に抵抗する動きが発生し、また一度動員されて朝鮮半島に送られた戦夫の中にも逃亡して秘かに日本に逃げ帰るものもいた。文禄2年に西生浦倭城にいた加藤清正が1通の書付を見つけた。それは領国・肥後の百姓から清正に随行している人夫に充てて記されたもので、「今なら集団で肥後に逃げ帰っても代官の改めもないあり様なので逃げ帰るのなら今だ」という内容で、百姓の抵抗が留守の代官まで巻き込むものになっていることを示すものだった。帰国した清正は夫役の免除などを行って民心の安定を図るものの、豊臣政権の分裂の影響で有名無実となり、財政難の克服と農村再建が重くのしかかることになる[399]が、出陣した大名が多かれ少なかれ直面した問題であった。

一方で、諸大名中最大の石高を持ちながら、九州への出陣止まりで朝鮮へ出兵しなかった徳川家康が隠然たる力を持つようになった。西国大名が出兵で疲弊した一方で、損耗を免れたことが徳川家康が後に天下を取る要因の一つとなった。

五大老の筆頭となった家康は秀吉死後の和平交渉でも主導権を握り、実質的な政権運営者へとのし上がってゆく。この官僚集団と家康の急成長は、豊臣政権存続を図る官僚集団(主に石田三成)と次期政権を狙う家康との対立に発展し、関ヶ原の戦い慶長5年(1600年)に至った。戦いに圧勝した家康は日本国内で不動の地位を得、慶長8年(1603年)に朝廷より征夷大将軍に任ぜられ徳川幕府を創設した。さらに家康は大坂の陣慶長19-20年(1614-1615年)で豊臣氏を滅亡させることで徳川氏による国内覇権を確立、江戸時代が始まった。

また、出兵に参加した大名たちによって連れてこられたり、大名と雇用関係を結んだりして自ら来日した朝鮮人から様々な技能が伝えられた。朝鮮人儒学者との学問や書画文芸での交流、そして陶工が大陸式の磁器の製法、瓦の装飾などを伝えたことで日本の文化に新たな一面を加えた。その一方、多くの朝鮮人捕虜が戦役で失われた国内の労働力を補うために使役され、また奴隷として海外に売られたこともあった[400]

慣れない異国の戦争は後の台湾出兵日清戦争と同様に戦死者以上の戦病死を発生させた。文禄二年二月五日付島津義久や吉川広家に宛てた秀吉朱印状には、これまで動員した船頭・水夫の大半が病死したため、浦々から15歳から60歳までの水夫を動員することを命じている[401]。同年四月十二日付渡海諸将宛秀吉朱印状にも病が蔓延しているので医師20人を派遣するとある[402]。陸でも同年七月二十一日付伊達政宗書状には腫気という病を得た者は十人中九人が亡くなったとし、また同月二十四日付書状には水の違いで多くの者が病死したとある[403]。ルイス・フロイスの調査によれば、文禄の役で渡海した十五万人の内、死亡者は五万人、その殆どは過労死・餓死・凍死・病死であった[404]。大名に限っても豊臣秀勝加藤光泰戸田勝隆長谷川秀一五島純玄島津久保が渡海先で、もしくは渡海先で病を得て帰国後に病死している。

江戸時代における影響[編集]


豊臣政権を倒した徳川氏の江戸幕府治下における朝鮮出兵に対する見方は林羅山の『豊臣秀吉譜』が鶴松の死による狂気にみたように否定的な見方が強かったが、一方で朝鮮通信使を江戸幕府への「朝貢使」と位置付けて、朝鮮出兵をその前提として解釈する流れも存在した。堀正意の『朝鮮征伐記』や山鹿素行の『武家事紀』はこの流れを汲んでいる。また、国学における本居宣長の『馭戒慨言』も同じ路線に立つが、こうした主張は「日本の武威」を強調するとともに、江戸幕府による朝鮮出兵の後処理を単なる平和回復ではなく、幕府によって朝鮮の再服属化と三韓征伐の約束である朝貢が回復されたとする認識によるものである[405]。なお、本居は出兵の失敗の原因として秀吉の敬神の欠如と朝鮮での無益な民衆殺害が原因であったとしている[406]

18世紀末期から19世紀初頭にかけてロシアの南下が警戒され始めると、朝鮮が朝鮮出兵の報復のためにロシアと組んで日本を攻撃するのではという噂が流れ、文化露寇を扱った南豊亭永助の『北海異談』には朝鮮出兵を対ロシア戦の参考にすべき先例として取り上げるだけではなくロシアと朝鮮による挟撃を警戒する記述が記されたり、『絵本太閤記』・『絵本朝鮮軍記』など朝鮮出兵に関する本が出されたりした[407]天保年間には川口長孺によって『征韓偉略』が著される。川口は中国や朝鮮の史料も参照しながら事実関係を考証しているが、一方で「日本の武威」を強調している[408]

三韓征伐と朝鮮通信使を結びつけた朝鮮を朝貢国とする認識や朝鮮出兵が日本の武威を示したとする認識は、19世紀の欧米の軍事的圧力の中で秀吉による朝鮮出兵に対する評価を肯定化させ、幕末に至って征韓論へと転換する要因となる[405][408]

また、朝鮮出兵が比較的新しい歴史的事件として、あるいは『懲録』・『征韓偉略』などを読んだ読後の感想として文人たちの間で朝鮮出兵を題材にした多くの漢詩が詠まれ、代表的なものに荻生徂徠の「寄題豊王旧宅」や菅茶山の「寄竹山先生」(中井竹山の学識を秀吉の武力よりも上と評した際に朝鮮出兵の失敗を引き合いに出す)、伊藤東涯の「復軒詞宗従予借懲録。頃寄瑤音、卒和謝之」、大槻磐渓の「読征韓紀」などがあげられる[408]

開国後の大陸進出への影響[編集]


江戸時代末期・明治時代の開国により大陸情勢への関係が不可避なものとなると、当時の武将達が三韓征伐を想起したように、秀吉の朝鮮出兵も注目されるようになり、大陸進出は豊臣秀吉の遺志を継ぐ行いだと考えるものも多くなった。韓国併合が成った際、初代総督寺内正毅は「小早川、加藤、小西が世にあれば、今宵の月をいかにみるらむ(秀吉公の朝鮮征伐に参加された小早川・加藤・小西の諸将が今生きていれば、朝鮮を日本のものとしたこの夜の月をどのような気持ちでみられるだろうか)」と歌を詠み、外務部長だった小松緑はこれに返歌して、「太閤を地下より起こし見せばやな高麗(こま)やま高くのぼる日の丸(太閤殿下を蘇らせ見せ申し上げたいものだ、朝鮮の山々に高く翻る日の丸を)」と歌い、韓国併合が成ったことを喜んだ。

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出典:Wikipedia
2020/02/22 20:31
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