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文禄・慶長の役
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13.影響
13.1.周辺国への影響
結果的には朝鮮一国を侵犯したに留まったものの、そもそもこの戦役は明国征服を目的として始まっており、唐(中国)・天竺(インド)・南蛮に至ると構想された世界進出についても、秀吉は早い段階から言及していた。これらは誇大妄想として評価されることも多いが[391]、東アジアの国際情勢の変化を感じ取っており[392]、「入貢か征伐か」という二者択一を迫っていた相手は実際に遥か南方の諸国にも及んで、秀吉の狙いは明や朝鮮に限られたわけではなかった。それぞれの国の対応や経緯をまとめる。

琉球王国[編集]


天正10年(1582年)6月7日、中国大返しに先立って毛利と和睦したため、配下の武将亀井茲矩に約束していた出雲の国での加増が不可能となったので別の場所を所望するようにと秀吉が述べたところ、茲矩は光秀討伐後は国内は皆閣下に靡くであろうから日本において望むべき所はないので「願わくば琉球を賜らん」と返答した。秀吉はこれを喜び、金扇の表に「亀井琉球守殿」と書き裏に署名してこれを与えた。以後、彼は柴田勝家滅亡の頃(天正11年)や小牧長久手の頃(天正12年)の書状では亀井琉球守として署名していた[393]。文禄元年、茲矩は琉球国を賜ったわけであるから今度は「琉球伐使」朱印が欲しいと願い出て、秀吉はやむを得ずこれを許可した。茲矩は出征して活躍したが、戦闘中に大事な金扇を落としてしまい、これは後に李舜臣の手に渡った[393]。出征後は僚友となった島津氏を慮ってか、茲矩は琉球守をではなく中国の地名の「台州守」を名乗るようになった。

琉球王国は明の冊封国であったものの、当時はまだ独立を保っていた。九州征伐後、秀吉は島津氏を介して琉球へ服属入貢の要求を行い、天正16年(1588年)以後複数回要求を繰り返した。琉球は、秀吉の征明軍に加勢せよとの命令を公には拒否したが、実際には日本軍への補給に協力し、島津義久は琉球王に名護屋城築城や遠征の加勢はしないでいいから、代わりに金銀米穀を送るように命じた[394]。しかし他方では、同時に明の臣下でもあった琉球は、日本側には秘密裏に、事前に中城王子を明に派遣して秀吉の征服計画を通報しており、明からも出兵に対して先導役を命じられていた。

インド(印度)[編集]


天正10年にローマに向けて出発した天正遣欧少年使節が、天正15年の帰路にポルトガル領インドゴア植民地に立ち寄った際、副王から秀吉への書簡が託された。彼らはイエズス会巡察師ヴァリニャーノを伴って天正18年(1590年)に帰国。翌天正19年正月にヴァリニャーノは秀吉に謁見してこの書簡を渡した。副王の書簡はバテレン追放令が出されたことを知る前の内容で、秀吉に敬意を払ってキリスト教の布教と宣教師の保護に感謝して将来もつづく良好な関係を期待するものであった。ところが、7月25日、秀吉が発した返書はこの期待を裏切るものだった。承兌が起草したため内容は朝鮮国王に渡したものに似ていたが、秀吉は自らが国内の天下統一を成し遂げた偉大な人物であることを誇示し、今は明国を征伐せんとしているところであるが、印度にも行こうと思えば造作もないことで「遠近異同の隔たりはない」と印度遠征の可能性を壮語する一方、印度の仏教と中国の儒教と日本の神道は一体のもので、神道を知ればすべてに通じるという独自の宗教観を披露し、国民を魔道に引き入れようという邪法(キリスト教)の布教は今後は許さないので、以後は宣教師が入国するのを許さず厳しく罰することを警告していた。他方で通商目的の入港の安全を保障し、南蛮貿易を保護する意向を示してもいたが、ヴァリニャーノは痛烈な内容に驚愕し、前田玄以に仲介を頼み込んで何とか表現を穏やかにするように苦心した[395]

この書簡には恩賜品の武具一式が添えられていたが、これは軍事的威嚇の意味があったのではないかとも解釈されている。バテレン追放令は一時期緩和された後で、二度目の発令で強化され、組屋文書では、加藤清正と小西行長には天竺(印度)の領地の切り取り自由の許しが与えられていた。

スペイン領フィリピン[編集]


フィリピンは当時スペイン植民地[注 92]で、秀吉が交渉した南方諸国の中では唯一交戦の可能性があった。織豊時代の日本とは人の往来が活発で、そうしたルソン島を往復していた一介の貿易商原田孫七郎(ガスパル・ハラダ)が、フィリピンの防備が手薄なのを知って秀吉にこの国を征服は容易であると上奏したことから、秀吉は孫七郎の策を受け入れて、天正19年(1591年)9月15日、彼に国書を持たせて降服を勧める使者としてマニラに派遣することにした。国書は西領フィリピンに朝貢と服属を要求するもので、既に朝鮮と琉球は日本に入貢していて、大明国の征伐するところだと述べていた。

孫七郎は渡海の前にヴァリニャーノに総督との面会の口添えを依頼しており、日本の侵略意図を察したヴァリニャーノは、マニラにいる同じイエズス会宣教師のアントニオ・セデーニョにこのことを伝えようとした。1592年春に日本船がマニラに来て日本軍襲来の警告をしたのはこのことであろう。フィリピン総督ゴメス・ペレス・ダスマリニャス[注 93]は驚き、海岸の防備を固めて警戒していたところに、5月31日、孫七郎が到着して国書を渡した。スペイン側では漢文を理解できるものがおらず、秀吉の国書は日本語からポルトガル語に訳された後でスペイン語に翻訳された。総督は秀吉の物言いに憤慨したようだが、この頃、スペインはオランダやイギリスと世界各所で戦争中で余力がなかったため、セデーニョと相談して返書をしたためた。内容は、無名の商人が国書を持ってきたことを訝しみ、敢えて使者の真偽に疑問を呈して確認を要請することで秀吉の要求への回答を先送りし、時間を稼ごうとするものだった。またスペイン帝国の大国としての威厳を誇示する一方で日本も大国であることを認めて、大国同士の修好通商を希望する旨も伝えていた。使者としてドミニコ会宣教師フアン・コボ[注 94]が孫七郎に同行し、貢物を持たせて派遣された。文禄元年(1592年末)、孫七郎はコボと共に薩摩から平戸を経て名護屋で秀吉に謁見した。僅かながら入貢があった事実とフィリピンの対応に秀吉は満足し、孫七郎に五百石扶持を与えて賞した。孫七郎は第二の国書を送るように進言したが、今度の使者は孫七郎の主人にあたる原田喜右衛門が務めることになった。毎年入貢を繰り返すならば出兵は見合わすという内容の書簡は二通あり、コボも受け取って別に帰路についたが、彼は台湾沖で遭難して土民に殺害された。

文禄2年(1593年)4月22日、喜右衛門はマニラに到着して第二の国書を総督に渡したが、スペイン側は事前に船に同乗していた明人を詰問して、日本国王が九鬼義隆にフィリピン諸島の占領を任せたが、台湾の占領も別の人物に任せたから、当地の遠征はその次である等々の出所のよくわからぬ怪情報を得て、それを信じていた。それで(イエズス会ではなく)フランシスコ会宣教師の派遣を要請し、秀吉の要求は来貢であると説明する喜右衛門に対して、総督は突っぱね、貢物として送るのは「大砲の弾丸あるのみ」と高圧的に交戦の決意を述べるに至った。ところが、マラッカ遠征中で今日本と開戦するのは好ましくないと説得され、わずか二週間後に喜右衛門の望み通り、フランシスコ会宣教師ペドロ・バプチスタ[注 95]、ゴンザロ・ガルシア[注 95]等3名を使者とし、メキシコ産の駿馬、玻璃の鏡、鍍金した壺などを贈物として通商同盟条約を申し出ることになった。名護屋で秀吉に謁見したこのフィリピン使節は他の宣教師とは異なる質素な装いが目についたが、ゴンザロが日本語に堪能であったことが幸いして、「日輪の子」を称し威圧的に振る舞う秀吉にも堂々と渡り合って感心させた。秀吉はフィリピン総督が服従しなければ征伐すると脅してスペイン国王の入朝まで要求したが、ゴンザロは冷静にフィリピン人はキリスト教徒としては神以外には服従できずスペイン人としてはスペイン国王以外には王とは認められないと反論。またこの使節は通商同盟条約を申し出るために来たのであるから、新たな要求は本国に伺いを立てないと返答できないと言い、それまでは自分たちは人質として日本に留まると言って了承された。しかし人質とは名ばかりの布教を目的とした滞在であり、フィリピン使節はバテレン追放令後の神父を失っていた京都で大歓迎された。豊臣秀次の配慮で前田玄以に命じて南蛮寺の跡地に修道院が建設されることになった。翌年にはマニラから新たに3名の宣教師が来て、京坂地方での布教活動を活発化させ、信徒を1万人増やした。前田秀以(玄以の子)や織田秀信[注 96]寺沢広高ら大名クラスもこの頃に洗礼を受けた。文禄3年(1594年)7月20日に帰朝した呂宋助左衛門が堺の代官石田正澄を通じて、秀吉に傘、蝋燭、麝香鹿、ルソン壺50個を献上して大変喜ばれたという有名な逸話もこの頃である。

フィリピンでは総督が相次いで死にテリヨ・デ・グズマン[注 97]に代わったが、ヌエバ・エスパーニャ(現メキシコ)に派した船が日本近海で難破し、サン=フェリペ号事件が起きた。秀吉はこの事件をきっかけにスペイン王とポルトガル王を兼ねるフェリペ2世が強大なるを知って脅威に感じ、慶長元年(1597年)にキリシタン弾圧を強めて通商同盟条約のために滞在中の使者全員を処刑した。交渉決裂により遠征の噂は絶えなかったが、しばらくして秀吉は病に倒れて実現することはなかった。[396][397]

台湾(高山国)[編集]


台湾(臺灣)は当時日本では高山国/高砂(タカサグン)と呼んでいたが、秀吉はフィリピンとの交渉中の文禄2年(1593年)、この高山国にも原田孫七郎を使者として派遣して服属入貢を要求した。しかし台湾は中国大陸より移住した人々が西部と北部沿岸に居住し、高地には少数民族が割拠しているだけで、統一した政府が存在しなかった。孫七郎は交渉先を見つけることができず、外交は失敗に終わった。しかし秀吉が台湾に使者を派遣したという情報は、スペインや明の知るところとなり、前述のようにフィリピンでの警戒は高まり、福建巡撫許孚遠は万が一のために澎湖諸島に兵を配置し、疏通海禁を命じて鎖国するなどしたのであり、一定の効果はあったようである。また孫七郎の以後の消息は不明ながら、書簡を持って帰国したという説もある[398][397]

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(12.3.朝鮮軍)
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(13.2.日本国内情勢への影響)
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出典:Wikipedia
2020/02/18 19:01
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