武士だった宅間の曽祖父は、明治維新の直後に丁髷を落として警察官に就任し、鹿児島県から奄美大島に渡った後、大阪・河内へ移住した[9][10]。宅間の祖父は、宅間の父親が17歳になった年の春に死去している[9]。宅間の父親は小学校で学歴を終え、宅間家一家の大黒柱として6人の家族を養ってきた[8]。
宅間の父親は、宅間の祖父と幼い頃から自宅の庭で木刀を打ち合っていたといい[9]、「自分は薩摩武士だ」との強烈なプライドを生涯持ち続けていた[10]。父親によれば「『誰にも迷惑をかけない』というのは、大きな私のテーマでありました[11]」と語っている。また、「(宅間家の男子は)何代にも渡って厳しい修身教育(道徳)を受けてきたため[12]、(宅間家の男子は)『真のサムライたれ』[11]と教育された。ワシも父親に厳しくそれを仕込まれたし、どんな出身地や身分にも関係無く『教育勅語』というものがあった[11]。これがあったから日本人はちゃんとしとったんですよ[11]」という。父親は極めて平凡な頑固親父で、人生の勝利者にはなり得なかったけれども自分の人生にプライドを持っていたという[10]。
宅間の父親は、家族全員に対して激しい暴力をふるっており[13]、宅間自身も父親から厳しく接せられていた(なお、父親自身も放任されて育っていた様子である)。宅間は暴力をふるう父親を憎悪し、寝ている間に包丁で刺殺してやろうと思ったこともあると述懐している[13]。宅間が自衛隊を退職して非行に走るようになると親子関係はさらに悪化し、取っ組み合いをして父親が宅間を何度も石で殴打する出来事もあった[3]。事件後、父親は宅間のことを「物事が上手くいかないとすべて人のせいにする人間」と評している[14]。
宅間の母親は、家事、育児が苦手であり、家事のほとんどは父親が担当し、一種のネグレクト状態であったと指摘される[13]。宅間を身ごもった時、父親に「これはあかん」「おろしたい」と語っていた[16][13]。また、母乳をあげることも嫌がっていた。さらに、宅間が中学を受験する際には、「お前なんか産まれてこなければよかった」と罵詈雑言を浴びせられたと、事件後に宅間のマンションから押収されたノートに書かれていた[1]。
宅間は両親に対して、喧嘩をした際に、「ヤクザを使ってお前らの生活滅茶苦茶にしてやる」「死ぬまで苦しめてやる」と語っていた[4]。
宅間には実兄が一人居たが、破綻した実弟の存在に心を病み、起業の失敗と偽って小刀で首を斬って40代前半の時自殺している[10]。宅間の母親も長期に渡って心を病み、長らく精神病院に暮らし、2016年末に亡くなっている[17][10]。父親は事件後酒乱となり入院しているが、獄中の宅間によると「宮崎勤の父のように自殺して欲しかった」と語っている。[18]