尾張国
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2.歴史
2.3.戦国時代から安土桃山時代、江戸時代初期まで
斯波氏守護代織田氏が実力を持つも、応仁の乱の発生で織田家は二つに分裂。東軍についた「大和守家」と西軍についた「伊勢守家」が戦後の尾張支配を巡って抗争状態となる。斯波氏は両者を巧みに操縦していたがやがて実力を失う。また駿府の今川氏親が東尾張に侵攻した名残りで那古野城は今川家の保有となる。「大和守家」の家老一族が「弾正忠家」として枝分かれし織田信秀の代で躍進。信秀は那古野城今川氏豊から奪い取るなど功績を挙げる。信秀の死後、家督相続を巡って大和守家から干渉があったものの、織田信長が家督を継ぐ。信長は斯波氏を後援し、大和守家と伊勢守家を排除。更に斯波氏が信長追放を企てると斯波氏も追放。伊勢長島を占拠していた一向宗を滅ぼして尾張統一を成し遂げた。また1560年(永禄3年)6月12日、信長討伐を目的として尾張に侵攻した今川義元桶狭間の戦いにて破る。これ以後、尾張国はその全域を織田弾正忠家が二代に渡って支配する。

1582年(天正10年)、本能寺の変が発生し信長・信忠親子は揃って敗死。山崎の戦い明智光秀を倒した羽柴秀吉と、織田家重臣の柴田勝家が世に言う清洲会議で対立。信長の後継者として信長の三男・神戸信孝を推す勝家と信忠の嫡子三法師を推す秀吉の対決は最終的に「織田家新当主に三法師、後見役に信孝」という形で落着した。しかし、まもなく清洲会議の決定を反故にした秀吉らは信長の次男・北畠信雄を主君として擁立。これに異を唱えた信孝と柴田勝家を賤ヶ岳の戦いで倒した。

ところが安土に入城して信長の実質的後継者を宣言しようとした信雄は秀吉に退去させられたことで関係が悪化。隣国、三河国徳川家康と同盟を結び、1584年(天正12年)、小牧・長久手の戦いを引き起こす。権力掌握のため多方面に軍を展開する秀吉はこの戦いに苦戦。池田恒興森長可が戦死する事態に陥るが様々な計略で信雄を追い詰め単独講和に成功、大義名分を喪った家康も撤兵する。

豊臣政権下の尾張国は当初、織田信雄に統治された。信雄は長島城を本拠としていたが1586年1月18日天正13年)の天正地震により長島城が倒壊したことで清洲城を大規模改修して本拠とする。その後、信雄は後北条氏滅亡後の関東への転封を拒んだため、1590年天正18年)秀吉の逆鱗に触れて改易された。信雄改易により、尾張国は福島正則(24万石)ら豊臣家の武将により分割支配された。

1600年慶長5年)、関ヶ原の戦いが発生。挙兵した石田三成の狙いは尾張・三河を電撃的に掌握し東海道の徳川軍を挟撃することにあったが失敗。一方、小山から転進した東軍は清洲城を集結地点として進軍。尾張・美濃の両国は東西両軍による前哨戦の舞台となる。戦後、福島正則は大きく加増され安芸広島に転封となる。そして、関ヶ原の戦功により徳川家康の四男松平忠吉が領主となり、尾張国全域と美濃の一部を領地とする清洲藩が成立した。しかし忠吉は1607年慶長12年)に28歳で死去。無嗣断絶となる。家康の九男で忠吉の弟にあたる甲斐甲府藩主の徳川義直が転封して清洲藩を継承した。

1586年天正14年)の木曽川の「天正の大洪水」により、美濃国との境に流れていた木曽川葉栗郡内のほぼ中央を流れるようになった。この為、豊臣秀吉の命により、1589年(天正17年)に新しい木曽川を尾張国と美濃国の境とし、美濃国側を羽栗郡に改称した。同時に中島郡海西郡も2国にまたがる郡となったが、こちらは改称されていない。

尾張国は織田信長と豊臣秀吉という二人の天下人を輩出。この他、尾張国出身の武将としては、柴田勝家丹羽長秀前田利家池田輝政山内一豊加藤清正、福島正則、蜂須賀正勝佐久間信盛佐久間盛政佐々成政堀尾吉晴浅野長政などが有名。

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出典:Wikipedia
2019/08/24 20:00
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