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反ユダヤ主義
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7.20世紀の反ユダヤ主義
7.1.20世紀イギリス
1880年代以降ロシアのポグロムから避難した250万人の東欧ユダヤ人は西欧諸国に殺到し、ロンドンだけでも1883年に4万7千だったユダヤ人人口は1905年に15万に膨れ上がり、各地方都市でも流入がすすみ、1880年に6万5千人だった在英ユダヤ人は1905年までに3倍以上になった[169]。ロンドンのスラムホワイトチャペルスターニー地区には東欧からのユダヤ人移民が10万人以上入植し、ステップニー地区の司祭はユダヤ貧民集団がキリスト教徒を追い出そうとしていると非難した[670]第一次世界大戦時にはタイムズ紙がこの地区にユダヤ人が国家内国家を形成していると批判した[670]

ドレフェス事件に際してはイギリスでもイエズス会士が反ユダヤ的な新聞記事を掲載した[670]

イギリスの社会主義者でフェビアン協会シドニー・ウェッブは、イギリス人は多数の家庭が産児制限をしている一方で、カトリック系のアイルランド人やポーランド人、ロシア人、ドイツ系のユダヤ人たちが制約もなく子どもを産み続けているが、これはイギリスの国民的な衰退をもたらすとした[547][671]

ジェームズ・マレー(1837年 - 1915年)が編集した『オックスフォード英語辞典』で「ユダヤ人」では侮蔑の意味があり、「強欲、高利貸し、狡猾な商売人」を意味すると定義された[165]

イギリス王エドワード7世(在位:1901 - 1910年)はドイツ出身のユダヤ人銀行家アーネスト・カッセルを腹心として、カッセルはドイツ皇帝のユダヤ人側近アルベルト・バリン(Albert Ballin)とホットラインを築いたが、イギリス上流界では反発を買った[670]青年トルコ人革命の後の1911年オスマン帝国再建のためにカッセルが招かれると、トルコ革命はユダヤ人とフリーメイソンの陰謀だと青年トルコに敵対するイスラム教徒が主張し、タイムズ紙やモーニングポスト紙も報道した[670]。ただし、デンメーなどユダヤ教徒が青年トルコ人革命に加担したことは事実である[670]

ユダヤ人の自由党議員ルーファス・アイザックスデビッド・ロイド・ジョージの腹心として活躍した[670]。また、ユダヤ教徒ハーバート・サミュエルアスキス内閣で非キリスト教徒として史上初めて入閣すると、反発を買い、1912年にはユダヤ人が結託したという疑惑のマルコーニ事件が発生したが、国会調査で嫌疑は晴れた[670]。カトリック作家チェスタトンはマルコーニ事件がイギリス史の分水嶺であるとした[670]

ハーバート・ヘンリー・アスキス首相(在任期間1908 - 1916年)は反シオニストで、シオニストを人種差別主義者であると非難した[670]

植民地大臣ジョゼフ・チェンバレンは、イタリアのユダヤ系外務大臣シドネイ・ソニーノに対して、卑怯なユダヤ人は自分が唯一軽蔑する人種だと発言した[670]

第一次世界大戦・ロシア革命とイギリスの反ユダヤ主義[編集]


イギリスでは、第一次世界大戦中に反ユダヤ主義が盛り上がり[670]、それに続くロシア革命でもさらに盛り上がった。

イギリス外交官セシル・スプリング=ライス(Cecil Spring Rice)は1914年11月の報告書で、アメリカでは大銀行家ジョン・モルガンの死以来、ウォーバーグ家のポール・ウォーバーグが連邦準備制度理事となるなどユダヤ人銀行家がはびこり、ユダヤ人は米国財務省や有力新聞を掌握していると報告し、銀行家ベルンハルト・デルンブルクジェイコブ・シフ、ユダヤ系財閥クーン・ローブなどのユダヤ-ドイツ系銀行家を警戒すべきであると報告した[670]1917年にスプリング=ライスは、ウィルソン大統領の盟友だったシオニストルイス・ブランダイスに対して、国際ユダヤ組織が各地で革命派を支援していると非難した[670]。スプリング=ライスは1918年、ロシア革命もトルコ革命もユダヤ人の陰謀とみて、イギリスにいるドイツ系ユダヤ人への警戒を呼びかけた[670]

1915年5月7日ドイツ海軍潜水艦によりルシタニア号が沈没して乗客1,198名が死亡すると、イギリスではヴァレンタイン・チロルがこの戦争犯罪をドイツ系ユダヤ人のアルベルト・バリン個人の責任として、またドイツ出身のユダヤ人銀行家アーネスト・カッセルからイギリス国籍を剥奪する反ユダヤキャンペーンも行われ、暴徒が外国人商店を襲撃した[670]。ユダヤ系新聞は、タイムズ紙はユダヤ人を敵国のドイツ人呼ばわりしていると批判した[670]。また、外国籍住民はイギリス軍への入隊が許可されなかったが、『デイリー・メール』紙は「国の蓄えを食い荒らすロシアの黄色いユダヤ人」は軍務忌避していると批判し、ザ・クラリオン紙はプロイセン人とユダヤ人は不毛な土地の盗賊と非難した[670]1916年6月にロシアに向かうキッチナー卿を乗せた船艦が魚雷攻撃で沈没すると、リーオウ・マクシーは国際ユダヤ人がドイツに情報を提供したと論じた[670]

第一次世界大戦中の1917年ロシア革命が起きると、さらにイギリスの反ユダヤ主義が強まった。ヒレア・ベロックによれば、イギリスで明け透けの反ユダヤ主義が台頭したのはロシア革命を契機としており、ボリシェビズムは本質的にユダヤ的なもので、出自を隠そうとするユダヤ人は立場を悪くするだけだと批判した[672]

マスメディアは反ユダヤ報道を繰り返した。『タイムズ』『デイリー・メール』『オブザーバー』の社主ハームズワース・ノースクリフ子爵は反ユダヤ意識を持っており、配下の各新聞ではボルシェヴィキと国際ユダヤ人の陰謀が繰り返し報道された[673]タイムズは、ロシア革命でユダヤ人学生がエストニアのユーリエフで義勇軍を結成し多くの財が破壊されたと1917年春に報道し、11月にはレーニンたちはドイツから革命資金を得ており、ドイツ系ユダヤ人の血を引く山師であると報道[674][675]、1919年にはモスクワでボルシェビキがイスカリオテのユダ記念碑を建立したと報道した[672]七月蜂起でのケレンスキー政権の声明に対してタイムズは「ペトログラードのソヴィエトは、国際ユダヤ人によって構成されている」と報じ、作家ギルバート・キース・チェスタトンは10月に、もしペトログラードのようにロンドンでも人々に教えを説くならば、ユダヤ人が我々に対して支配権をふるうことだけは断じて許容しないと忠告した[672]。このほかモーニングポスト紙でもマーズデン記者がロシアで囚われた際にユダヤ人が拷問係であったし、ロシアの破壊者はユダヤ人だと証言し、『シオンの賢者の議定書』という証拠もあると述べた[672]

1917年12月にレーニンとスターリンがインドでの共産主義革命を扇動すると、大英帝国はあらゆる手段を用いて防いだ[673]。1918年夏にイギリス政府は、ボルシェビキ政府打倒のためにロシアで反ユダヤのビラを飛行機で散布した[673]。政府報告書では、ロシアにおけるボリシェヴィズムはドイツのプロパガンダの産物であり、国際ユダヤ人に指揮されており、ユダヤ人が企業の大部分を手中に収めると、飢餓が日常化し、1918年10月には女性の国有化がほぼ完成していたというロシア駐留イギリス海軍付き牧師B.S.ロンバードの証言も採録された[673][676]

1918年の冊子『ユダヤ人に踏みつけにされたイギリス』ではロシアとルーマニアを裏切ったドイツ皇帝の工作員のトロツキーとレーニンの指示で、ユダヤ人がイギリスを汚染していると主張された[677]

1919年1月から9月までのパリ講和会議ウィルソン米大統領とロイド・ジョージ英首相が、トルコのプリンキポ諸島で白軍と赤軍を招いて会議を開催すると提案し、ロシアのボリシェヴィキ体制を承認する姿勢を見せると、タイムズ紙はニューヨークのユダヤ人金融業者に吹き込まれたものと憤慨し、シベリアにいたノックス将軍も抗議した[673]。タイムズ紙主幹ウィッカム・スティードがパリの『デイリー・メール』紙でボリシェヴィキは西洋文明の基礎を公然と覆す無法者であると主張すると、スティードはウィルソン米大統領腹心のハウス大佐から呼び出され、米国がボリシェヴィキを承認してしまったらヨーロッパでのボリシェヴィキの台頭をくい止めることはできなくなり、そうなるとウィルソン米大統領も信用を失い、国際連盟も瓦解すると諭し、プリンキポ諸島会議計画は、シフ、ウォーバーグたち国際金融業者であると語った[673]。この対談が英米首脳にボリシェヴィキ体制を承認するのを思いとどまらせたとされる[673]ノースクリフ卿ハームズワースは、ロイド・ジョージ首相がシオニストのメルチェット卿アルフレッド・モンド(Alfred Moritz Mond)の政策を採用したことを攻撃していた[673]。またタイムズは社説で、選民意識を持った人種のユダヤ人はモーセの掟に忠実で、人に赦しを与えようとせず、ロシアへの仇討ちはユダヤ人にとって甘美なる喜びであったと主張された[678][673]

モーニングポスト紙がイギリスのユダヤ人は共産主義から距離を置いていることを公示すべきであると訴えると、モナッシュ将軍、ライオネル・ロスチャイルドなど著名なユダヤ人が共産主義とシオニズムを否定して要求に応えた[673]

ウィンストン・チャーチル1919年11月5日のロシア白軍への物資援助予算審議国会で、レーニンはチフス菌を都市の貯水槽に流し込むようにしてロシアに送り込まれ、またニューヨーク、グラスゴー、ベルンなどに潜む革命家を指揮するなど悪魔的に器用であると述べ、また1920年1月3日には社会主義者は全ての宗教を破壊しようとしており、ロシアとポーランドのユダヤ人が作り出す国際ソビエトに信を寄せていると演説した[673]。チャーチルは1920年2月8日にサンデイヘラルド紙上の『シオニズム対ボルシェヴィズム:ユダヤ民族の魂のための闘争』で、ユダヤ人には祖国を再建しようとしているシオニストがいて、国際ユダヤ人がいる。国際ユダヤ人の運動は、「スパルタクス」と呼ばれたアダム・ヴァイスハウプト(Adam Weishaupt)はイルミナティを結成してフランス革命の悲劇をもたらしたほか[679]、マルクス、トロツキー、ハンガリーのクン・ベーラ、ドイツのローザ・ルクセンブルク、米国のエマ・ゴールドマンまで世界中で共謀しており、さらにテロリストで無神論のユダヤ人は実際にロシア革命を実行し、ハンガリー評議会共和国バイエルン・レーテ共和国を築き恐怖をもたらしたが、大英帝国臣民であるユダヤ人国民は他のイギリス臣民のようにロシアの陰謀と戦うべきだし、ボルシェヴィズムはユダヤ人の運動ではないと明らかにすべきで、またパレスチナにユダヤ人国家を早急に建設すれば、不幸なヨーロッパからの避難所となり、ユダヤ教の栄光ある教会となる、と新聞で論じた[673][680]。一方で、オスカー・ワイルドの恋人だったアルフレッド・ダグラス卿はチャーチルをシオン賢者の工作員として告発した[673]

1920年、モーニングポスト紙編集者ハウエル・アーサー・グウィンが序文を書いた『世界の不穏の原因』でも「シオン賢者」と「ユダヤ禍」が主張された[673][681]

1920年4月にはロイド・ジョージ首相とボルシェビキとの交渉が始まり、レオニード・クラシンが非公式にロンドンに招待された。タイムズは『シオン賢者の議定書』を引用して、ダビデの世界帝国を樹立しようとしている陰謀家との交渉であると批判した[* 79]。また、スペイクテイター紙も議定書を引用して、ユダヤ人議員の入閣や、ユダヤ人への市民権授与には慎重であるべきで、ユダヤ人は危険因子で国際争乱の源泉であり、「社会のペスト」であると繰り返し報道した[* 80]

1921年1月16日、在英ユダヤ人代表団(Board od deputies of British Jews)は反ユダヤ主義批判の声明を出した。これにはウィルソン、ハーディング、ルーズヴェルト、タフトら米国歴代大統領、銀行家モーガンなど、アメリカ人の著名人が名を連ねた[682]

タイムズ紙は1921年8月16・17・18日にフィリップ・グレイヴス記者による「議定書の終焉」記事を掲載し、タイムズ紙は以後、『シオン賢者の議定書』を情報源として使用しなくなった[673]

20世紀イギリス文学の反ユダヤ主義[編集]


文学作家たちにも反ユダヤ主義的な意識が見られる。1913年にはラドヤード・キップリングが「イスラエルの士師、雪のごとき白き癩病者」と詩で書いた[670][683]

第一次世界大戦から第二次世界大戦までの戦間期には、イギリスに帰化した詩人T・S・エリオットが『ゲロンチョン』(1920)で「わたしの家はぼろ家です。おまけに主は窓の敷居に蹲るユダヤ人」が「どんよりしたどんぐり眼のまなざしが原生動物の粘泥のなかからカナレットの透視画を凝視している」「積荷の下にはネズミばかり、せり売り台の下にはユダヤ人」と書いた[352]。エリオットはカトリックによる文化統一を主張し、「異神を追いて」では国民は同種族でなければならず、自由思想のユダヤ人が混じるのは好ましくないとして、極端な寛容は排すべきだとした[352]。1940年にもエリオットは自分は反ユダヤ主義者ではないし、人種的な偏見は持っていないが、自らの信仰から遊離したユダヤ人は危険であり無責任であると述べた[352]

他方、作家ジェイムズ・ジョイスは「彷徨えるユダヤ人」の系列につながる『ユリシーズ』(1922)で、妻と結婚するためにカトリックに改宗したユダヤ人主人公ブルームを描き、作中でタルムードからの影響や、イギリスがユダヤ人に支配されているという校長に対して反論するスティーブンを描いた[684]

ジョン・ゴールズワージーは戯曲『忠義』(1922)で金持ちで不遜なユダヤ人の失墜を描いた[673][685]。カトリック作家ヒレア・ベロックは『ユダヤ人』(1922年)でユダヤ人問題は恐るべき結末を迎えようとしているが、文明の未来を脅威にさらすことを防ぐにはユダヤ人が隔離政策を受け入れることだと論じた[673][686]聖公会牧師ウィリアム・ラルフ・イングは、イギリスでユダヤ人問題など見聞した覚えはないし、イギリスは世界最良のユダヤ人を獲得したにすぎず、一人の人間を個人の価値において遇し、移民だからという理由で処罰することは断じてない、またチェンバレンはイエスをドイツ人としたがイエスはユダヤ人であるとベロックを批判した[673]

作家ジョージ・オーウェルは、『パリロンドンで落ちぶれて』(1933)で、ユダヤ人古物商を不愉快な男として描き、またユダヤ人詐欺師についても描いた[687]。1931年8月の「ホップを摘む」では、いつも豚にようにがつがつしているユダヤ人の少年の顔は「腐肉にたかる卑しい獣を思い起こさせる」と書き、「空気を求めて」(1939)では講演会に参加しているトロツキストを「抜け目ない顔つき、もちろんユダヤ人だ」と書いた[687]。1940年10月25日の日記では、ロンドン空襲時に地下鉄に避難したユダヤ人について「ことさら自分から目立とうとする」「こわい顔をしたユダヤ人の女」が、列車から降りるのに邪魔な人を誰彼なく打擲していると書いた[687]1942年1月1日のロンドン通信では、イギリスの反ユダヤ主義はドイツの反ユダヤ主義ほど暴力的ではないと書いた[687]。第二次世界大戦後のオーウェルについては#現代のイギリスを参照。

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(6.18.アメリカ合衆国:建国から19世紀まで)
[6]次ページ
(7.2.イギリス委任統治領パレスチナと反シオニズム)
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出典:Wikipedia
2019/12/21 02:00
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