反ユダヤ主義
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6.近代の反ユダヤ主義
6.18.アメリカ合衆国:建国から19世紀まで
アメリカ大陸に渡った清教徒たちは古代イスラエル人に自らをたとえた。しかし、同時代のユダヤ教徒を受け入れることはできなかった[733]。清教徒たちはヨハネ黙示録で予言された千年王国、キリスト再臨を待望したが、千年王国の朝明けの前にユダヤ人がキリスト教に改宗しなければならないとした[733]。ユダヤ人ジューダ・モニスは1722年にキリスト教に改宗してからハーバード大のヘブライ語講師に任用されたし、1776年制定のメリーランド州憲法ではキリスト教宣誓が要求されており、ユダヤ教徒の権利を認められたのは1826年であった[733]。他方でロードアイランド植民地を開いたロジャー・ウィリアムズ1647年にユダヤ教、イスラム教、反キリスト的な信仰も認められるべきであると主張した。ロードアイランドカレッジでは学生に宗教的自由が認められ、ニューポートはユダヤ人に人気となり、1770年代にはニューヨークを凌ぐ繁栄を誇った[733]

1654年ポルトガルが当時世界最大の製糖輸出港だったブラジルレシフェ港をオランダから奪い返すと、ユダヤ人は異端審問を恐れて16隻の船で四散し、その内一隻がニューアムステルダム(のちニューヨークへ改称)に上陸した。これがユダヤ人最初のアメリカ上陸となった[733]

1775年からのアメリカ独立戦争では在米ユダヤ人の大半がアメリカを支持した。ユダヤ人は各地に離散している仲間と連携して貿易を行っていたため、イギリスの航海条例などに反発していたためであった[733]。戦争中はユダヤ人は独立派のウイッグ派からは親英派のトーリーとして、トーリーからは独立派として排斥されることもあった[734]ニューポートの指導的なユダヤ大商人アイザック・ハートは親英派であったために群衆に殺害された[733]。ポーランド出身のユダヤ人金融業者ハイム・サロモンは、アメリカ植民地軍の軍資金を用意し、財務長官ロバート・モリス顧問となり、またジェファーソンランドルフマディソンなどの議員を私財によって支援し、その功績はアメリカでのユダヤ人の社会的地位の確立につながった[733]

第6代アメリカ合衆国大統領ジョン・クィンシー・アダムズは1780年、アムステルダムのユダヤ人について「こんなみじめな風体をした人間に会ったためしがない。ひとの頭から両眼を盗むことだってしかねない」と書き、大統領就任後の1825年にはユダヤ人をキリスト教に改宗させる米ユダヤ人環境改善教会[735] を支援した[734]

アメリカ文学にみる反ユダヤ主義[編集]


詩人ヘンリー・ワーズワース・ロングフェローは1852年に訪れたニューポートのユダヤ人墓地についての詩で、ユダヤ人に同情しながらも「死せる民族が再び立ち上がることはない」とした[736][737]

詩人オリヴァー・ウェンデル・ホームズはキリスト教徒もユダヤ教徒も同じ人間であると主張して、反ユダヤ主義に対してキリスト教徒は謙虚になるべきだとした[736]

ジョージ・リパードの小説『クェイカーの都市』(1845)では悪徳業者を手助けするユダヤ人ゲルトを馬の頭と背中の瘤を持ち、両肩は耳までせりあがった畸形者として「三千年昼寝をしたヘブライ人」と罵倒して、五年間で17万5000部も販売したベストセラーとなった[736][738]

小説家ナサニエル・ホーソーンは1856年にユダヤ人のロンドン市長デイヴィッド・サロモンズと面会すると、市長の義姉はユダヤ人にしては美しいが、その夫はイスカリオテのユダ、彷徨えるユダヤ人に典型的なタイプで、「ぞっとするほどユダヤ的で、残忍で、鋭敏なのだ」と日記で評した[736]。1858年にはローマのバルベリーニ宮デューラー作「博士と議論するキリスト」でのユダヤ人描写について「これほど醜く、悪意に満ち、頑迷で、実利的で、狷介な者はいない」と評し、またリヴォルノのシナゴーグを汚くて神聖さと無縁であるとした[736]。『大理石の牧神』(1860)ではユダヤゲットーを腐敗したチーズにたかるウジ虫のように窮屈で不潔とした[736]

作家ハーマン・メルヴィルは、『レッドバーン』(1849)でユダヤ人質屋を鉤鼻と描写し、アメリカは移民の国際的合同体であるが、「われわれは頑迷なヘブライ的民族性を持った心の狭い部族的人間ではない」とし、ユダヤ人は排他的な世襲を保つことで血統を高貴ならしめようとしていると批判した[736]。『白鯨』(1851)では、中世の人々がユダヤ人の悪臭を嗅ぎ分けたようには鯨捕りを嗅ぎ分けられないと描いた[736]。1856-7年にはパレスチナを旅行すると、パレスチナでユダヤ人がキリスト教に改宗しないことに対して「ばかげたユダヤ狂い」と批判、また、「ユデアの地の大半を占める悪魔的な風景から、ユダヤの預言者たちは、あの恐るべき神学に思い至った」と日記に書いた[736]。『クラレル』(1876)ではユダヤ民族の排他性、儀式殺人、無神論者で唯物論者のユダヤ人マーゴスへの反感などが描かれる一方で、キリスト教文明のユダヤ教への負い目についても描かれた[736]

南北戦争(1861-65)では、従軍僧はプロテスタントとカトリックに限られており、ユダヤ教ラビは除外された[733]。しかし1862年7月、ユダヤ人従軍僧も服務可能になった。また、戦時中に騰貴した綿花の闇取り引きが横行し、一部のユダヤ人も行っていたため、1862年12月17日ユリシーズ・グラント将軍はユダヤ人をテネシー軍管区から追放する一般命令11号を布告した[733]。ユダヤ商人がリンカーン大統領に直訴してこの命令は撤回された。戦後、大統領となったグラントは多くのユダヤ人を公職につけた[733]。一方の南部では敗戦の責任をユダヤ人に転嫁して非難された。南部連邦国務長官ジュダ・ベンジャミンは「忌まわしいユダヤ人」と呼ばれ、戦時中にユダヤ人が商品を買い占めたためにインフレが起きたし、ユダヤ人は徴兵拒否と通敵行為に走り、また民衆を搾取して蓄財したと噂された[733]

ジョン・クィンシー・アダムズの孫でピューリッツァー賞受賞作家ヘンリー・アダムズイディッシュ語を話すユダヤ人をみると背筋が寒くなると嫌悪し、また訪日した際には「ジャップは猿だ」とした[734]1879年にはスペインでユダヤ人とムーア人といやというほど出くわしたので、異端審問については寛大な見方ができるようになったとした。ヘンリーは中世のノルマン人を称賛する一方で、ユダヤ人を金融資本と同一視し、キリスト教文明に敵対する経済的類型の権化とみなした。1896年にはユダヤ金融資本が銀貨の自由鋳造を妨害しているとし、「われわれはユダヤ人の手中にある」とした[734]。ドリュモンの著作を愛読したヘンリーは、ドレフェス事件でのドレフェス擁護派はユダヤ人の金で動いているとし、ドレフェスを擁護するゾラはドレフェスやユダヤ人ジャーナリスト、演劇人、株式ブローカー、ロスチャイルドなどと一緒に悪魔島へ送るべきだとした。また「ユダヤ人が死滅するのをみたい一心で生きているのだ。わたしはすべての金貸しが拘引され処刑されるのをみたい」とも書いた[734]

作家ヘンリー・ジェイムズは「あらゆる桎梏から解き放たれたユダヤ人」の子供が溢れているのは、復讐をともなった増殖だろうかと述べた[739]。1904-5年、アメリカのゲットーを訪れたジェイムズは「巨大で黄ばんだ水族館のなかで、大きすぎる鼻をした無数の魚が、山積みされた海の獲物のなかでいつまでもぶつかりあっている感じだった」、蛇か虫かのように「千切りにされても這い出していき、刻まれる前と同じく達者で生きる」と喩え、また豪華なユダヤ商店に対して「ユダヤ人が巧妙な商才を発揮するのは、概してユダヤ人以外が相手のときだ」、また酒場でイディッシュ語を聞いたジェイムズは、合衆国の未来の言葉が英語でなくなることを憂慮した[734]

マーク・トウェイン1883年の「ミシシッピ河の生活」では、ユダヤ店主は不要なものも無知な黒人夫婦につけで売りつけて、生活が苦しくなった黒人は去るという、ユダヤ商人に手こずる話を書いた[740]。1878年から1900年までヨーロッパに滞在したトウェインは、ユダヤ知識人とも交歓したため、反ユダヤ新聞はトウェインをユダヤ人贔屓として非難した[740]。「ハーパーズ」1899年6月号に発表した「ユダヤ人に関して」でユダヤ人の家庭は模範的で暴力犯罪も稀であるが、ただし、詐欺、高利貸し、保険金目当ての放火などで信用を落とす一面もあり、公務員としては優秀だが、兵士として馳せ参ずるのをためらいがちで愛国心が少ないとした[740]。トウェインは、ユダヤ人の優秀な頭脳と金への崇拝が他民族から憎悪される原因であるとし、古代エジプト宰相のユダヤ人ヨセフが飢饉に際して国民の財産をパンと交換に買い占めた経済的手腕こそ反ユダヤ主義の淵源であるとした[740]

反カトリック、「人種のるつぼ」[編集]


清教徒を国民的伝統とするアメリカ合衆国では憎悪のはけ口がユダヤ人よりもカトリック教徒に対して向けられていた[739]アイルランドのカトリック教徒はローマ教会の扇動で陰謀を企てているとさかんに告発され、1834年にはボストンのチャールズタウンでのプロテスタント暴徒が聖ウルスラ女子修道会に放火し(聖ウルスラ修道会暴動事件)、1836年の『マリア・マンクの暴露話』ではモントリオールのカトリック修道院での司祭による修道女への性的虐待子殺しが告発されるなど[741]、反カトリック運動が盛り上がった[739]。1850年代には反カトリック政党ノウ・ナッシングが結成され、デイゴー(Dago)と呼ばれたイタリア人カトリック移民はカインの印を刻まれた生来の犯罪者とされ、1890年代にはリンチを受けた[739]

作家ジョン・ヘクターは『アメリカ農民の手紙』(1782)でアメリカ人を「全民族が融合した新しい人種」とし、この新人種は世界を変えるだろうと述べた[742]。19世紀半ば、民族のるつぼ(メルティング・ポット)が米国の原則として明確化すると、思想家エマーソンや作家メルヴィルは民族混合の利点を主張した[739]。ダーウィンは移民は自然淘汰から生まれた優秀な産物であるとし、スペンサーは1882年に移住と混合は優れた民族を生み出すとアメリカで述べた[739]。チェスタトンは、アメリカでは反ユダヤ主義は禁止されており、アメリカの愛国主義はあらゆる人の同化を誇りにすることであると述べている[739]。しかし、ドイツ系ユダヤ人の哲学者ホレス・カレンは1915年にメルティング・ポットによる同化主義を否定して、「人々は衣服、政治、妻、宗教、哲学を程度の違いはあれ変えることができる。しかしながら、彼らはその祖父を変えることはできない」として、人々はエスニシティを生涯変えることはできないと論じた[743][744]。またカレンは、1928年の「反セム主義のルーツ」では、キリスト教国家は反セム主義を普遍的準則としてしまうと論じた[745][746]

「成り上がり者」のユダヤ人[編集]


1840年にアメリカのユダヤ人口は15000人ほどであったが、ドイツのユダヤ人が大量に移住して、1880年には30万人となった[739]ジーンズの創始者リーヴァイ・ストラウスもドイツ系ユダヤ人移民であった[739]。ドイツ系ユダヤ人の半数は実業家で、20人中1人が知的職業につき、行商人は100人中1人だった[733]。ユダヤ人はアイルランド人やイタリア人移民と比べると短期間に裕福になったため、「成り上がり者」というイメージが現実味を帯びた[739]。また、ヤンキー行商人はいかさま師で、嘘つきの詐欺師という点ではユダヤ人と相通じるというヨーロッパでの常套句も見られた[739]

1876年、ニュージャージー沿岸地方のホテルでユダヤ人お断りという広告を発表した[739]。1877年にはサラトガのホテル業者ヒルトン[747] が「ユダヤ人と犬の立ち入り禁止」を入り口に貼り、実際に大富豪ジョーゼフ・セリグマンをユダヤ人であるため入館させなかった[733]ニューヨーク・タイムズは1877年6月19日「サラトガ大事件」として報道し、ユダヤ人富豪はサラトガのホテルをいくつも買収して、その相剋の結果、ニューヨーク近隣の夏季保養地が「キリスト教徒の保養地」と「ユダヤ人の保養地」に二分された[739]

世紀末に東欧出身のユダヤ人が大量に移住してくると、ドイツ系ユダヤ人が東欧出身の新移民ユダヤ人の退去を1882年のボストンで要求するようなこともおこった[734]連邦上院議員ヘンリー・キャボット・ロッジは東欧ユダヤ人は劣等であるとした[734]。1890年から1914年までに1651万6081人の移民がアメリカに入国し、そのうちユダヤ人は169万人4842人にのぼった[734]

1896年大統領選挙での民主党候補ウィリアム・ジェニングス・ブライアンは「金の十字架」演説で、ユダヤ人がキリストを裏切ったのと同様に、大資本は金で農民を裏切るとした[734]。また、銀貨の無制限鋳造(フリーシルバー)を主張した1895年の文書では、世界の金の半分はロスチャイルド家が所有し、残り半分のほとんどもロスチャイルド家の衛星機関が握っているとした[734]

他方、1896年の共和党大会ではプロテスタントとカトリックの緊張関係によってユダヤ教ラビが開会の祈祷を唱えたが、このように三宗派が同等のものとされることは当時のヨーロッパ諸国では見られないものであった[739]

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出典:Wikipedia
2019/10/09 06:00
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