反ユダヤ主義
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6.近代の反ユダヤ主義
6.15.世界大不況の時代 (1873年-1896年) とユダヤ資本主義論
産業革命によってイギリスは世界経済の中心となったが、19世紀末になると後発資本主義国家のアメリカ合衆国とドイツが成長してイギリスを追い越した[586][587]。ドイツが統一されドイツ帝国が成立すると1871年から1872年にかけて投機ブームが起こった[588]。しかし、この投機ブームは1873年恐慌からの世界大不況によって終焉を迎え、多くの投資家が破産し、企業の倒産が続いた[579]1873年恐慌の震源地は米国とドイツであった[586]。その後ドイツは1887年に好況に入ったが、1890年の恐慌はドイツから始まった[586]1873年から1896年まで展開した世界大不況の時代にヨーロッパ各地で反ユダヤ主義が高まっていった。

ドイツのユダヤ人が全きドイツ国民となり市民権が認められたのはドイツ帝国においてだった[288]。かつて高利貸しなどの金融に限定されていたユダヤ人は法的身分を保障され解放されるともに産業経済に進取的に参入し、さらに国際規模で経済活動を展開し、産業資本主義を発達させるのに主導的な役割を果たした[589]。解放されたユダヤ人は盛んな投資活動を行いさまざまな商工業分野で成功した。進出した業種は金融、繊維、鉄鋼、化学、製油、電気、衣料、鉄道、海運、百貨店、武器弾薬などの軍需産業に及んだ[590]。また、ユダヤ人資本家はドイツ帝国主義を支持してアフリカのダイヤモンド鉱山の開発を主導し、こうしたユダヤ人の国際的な活躍は「国際ユダヤ資本」理論を生み出した[590]。1880年にはフランクフルトの銀行業85%がユダヤ人経営となり、1933年のナチ政権まで全ドイツ百貨店の80%がユダヤ人経営となった[590]。1900年頃、フランクフルトのユダヤ人市民の納税額はキリスト教市民の4倍から7倍にもなった[590]。ユダヤ人の大学入学率はプロテスタントの10倍、カトリックの15倍となった[591]。ユダヤ人は近代化、近代社会の象徴とされ、憎悪された[579]。躍進著しいユダヤ人に対する人々の妬みや反感は反ユダヤ主義の潮流を高めた[592]。ユダヤ人は社会主義者からみれば敵のブルジョアジーであり、反対に資本家の眼には社会主義者・革命家とうつる存在であり、ユダヤ人が国際ネットワークを使って世界支配の陰謀をめぐらすというユダヤ陰謀論(脅威論)が様々な形態をとって繁殖していった[106]

19世紀末に人種主義的反ユダヤ主義が強かったのはオーストリア・ハンガリー帝国、フランス、ロシアであり、ドイツ帝国でも個人に対する国家の優越、秩序と権威の重視、国際主義と平等への反発などを背景にユダヤへの敵意が膨れ上がった[593]

フランスでも社会主義者やカトリックからの反ユダヤ主義が強く、ドイツと同様のユダヤ陰謀論が跋扈した。またドレフュス事件は大きな分岐点となり、数々の反ユダヤ主義団体が結成されていった。

大不況下の帝政ドイツ[編集]


コンスタンティン・フランツ[594]1874年にドイツ帝国とビスマルクの軍国主義を批判し、永久平和を保障するヨーロッパキリスト教連邦を計画した[595]。フランツは、かつてヨーロッパのキリスト教共同体を統轄した神聖ローマ帝国であったドイツがその担い手となるし、ビスマルクの偽帝国に代わる真の帝国の樹立がドイツの使命とした[595][596]。フランツはこのキリスト教帝国においてはユダヤの影響からの解放が条件とした[595]。フランツによれば、人種を超えて普及したキリスト教やイスラム教と違ってユダヤ教は一つの人種に基づくし、ユダヤの民はメシアを死に至らしめたあと、神の呪いによって放浪し、このことが他の民を罰するための神の道具となって、キリスト教徒間の戦争はユダヤの支配を強めることとなり、ビスマルクは「ユダヤ民族のためのドイツ帝国」の樹立に向かっているとし、真の進歩は「ユダヤ的進歩」にとって代わる必要があると論じた[595]

帝政ドイツの社会主義における反ユダヤ主義[編集]
大不況下の帝政ドイツでは社会主義運動が高まり、ラッサールの全ドイツ労働者協会と、ベーベルリープクネヒトのドイツ社会民主労働党が合併したドイツ社会主義労働者党1875年に結成された[563]。しかし、社民党や共産党でもユダヤ知識人は攻撃され、ベーベルもユダヤ人社会主義者を頭はよいがめざわりとし、この見方は正統的社会主義に深く根をおろし、特に共産党では反ユダヤ主義が強かった[597]。ユダヤ人は労働運動のなかでも孤立した[597]1878年5月11日と6月2日に元ドイツ社会主義労働者党員によってドイツ皇帝ヴィルヘルム1世暗殺未遂事件が二度起こると、「社会民主主義の公安を害する恐れのある動きに対する法律(社会主義者鎮圧法)」が作られたが1890年には失効した[583]。ドイツ社会主義労働者党は1890年帝国議会選挙では第一党となり、同年9月、ドイツ社会民主党へ改称した。

1878年、帝宮礼拝堂付司祭アドルフ・シュテッカーは、社会主義を穏健なキリスト教社会主義と破壊的なユダヤ社会主義とに区別して、ユダヤ人の市民権制限、公職追放、ユダヤ人移民制限、工場法、利子制限法、累進課税相続税徒弟制度などを主張して、勤労者のためのキリスト教社会党(Christlich-soziale Partei)をベルリンで結成してベルリン運動を展開、1879年にはプロイセン議会議員、1881年には帝国議会議員となった[579][598]。経済学者アドルフ・ワーグナーも党の創設に関わったキリスト教社会党は反ユダヤ宣伝を行った[8]

1879年にA・ピンカートがドレスデンでドイツ改革協会を設立し、さらに1882年に国際反ユダヤ会議を設立した。政治家E.ヘンリチやM.L.フォン・ゾンネンベルクらが参加し、シュテッカーの支持者も合流した[599]

なお、1878年にドイツ主催で締結された露土戦争の講和条約ベルリン条約では諸宗教の平等規定が含まれた。

1879年無神論者で社会主義者だったジャーナリストのヴィルヘルム・マルが「反セム主義(Antisemitismus)」という語を用いた[9][541]。ハンブルグ出身のマルはブルーノ・バウアーらの影響を受けて無神論に傾倒して、1844年にスイスで労働運動を組織して失敗し、1848年革命ではハンブルグで革命に参加後、スイスに亡命して無政府主義グループに参加した[600]。マルは1862年に『ユダヤの鑑』を発表して、1879年に『非宗教的見地から見たゲルマン主義に対するユダヤ世界の勝利』というパンフレットを出版した[600][601]。マルはこのなかで、金融界の慣習はユダヤ的であることに疑いはなく、ユダヤ人は迫害に耐えて生き抜くことを可能にした人種的素質によって勝利したとし、「ユダヤ人は、いかなる非難を受ける筋あいはない。彼らは、18世紀もの長きにわたって西洋世界を相手に戦い抜いてきたのだ。彼らはこの世界を打ち負かし、支配下に置いた。われわれは敗者であり、そして、勝者がウァエ・ウィクティス(敗者に災いあれ)」を叫ぶのは当然のことなのだ」として、ドイツ人はすでにユダヤ化しており、反ユダヤ感情が暴発しても、ユダヤ化した社会の崩壊をくい止めることはできないと論じて、「われわれにとっては神々の黄昏の始まりだ。あなた方(ユダヤ人)は支配者であり、われわれ(ドイツ人)は農奴となった。ゲルマン世界は終焉を迎えた」と結論した[579]。マルはドイツの自由主義がドイツ財政および産業をユダヤ人が支配することを許していると批判した[8]。この書物は出版から数年で十数回の版を重ねた[579]。マルは、同じ1879年に反セム主義者連盟(Anti Semiten Liga)を結成して、反ユダヤ主義の最初の大衆運動となり、フリッチュに影響を与えた[600]。こうしたマルの活動は、ドイツ民族によるユダヤ的本質の絶滅を目標にしていたとされる[8]

マルクスやラッサールを批判した社会主義経済学者オイゲン・デューリングエンゲルスによっても批判されたが、『人種、風俗、文化問題としてのユダヤ人』(1881)[602]、『完全な宗教への代替と近代民族精神によるユダヤ性の除去』(1883)[603] などで、事実的なことや現実的なことに関して才能がないユダヤ人は形象や夢にとらわれて暮らし、比輸によって思考している空想家、神話形成者であるため、「北方の人間はより厳しいより冷静な天空の下で、際限を知らないこの民族を論理で撲滅しなければならない」と述べ、ユダヤ人を抑えつけるためには社会主義以外の方法はないとし「ユダヤ人からの解放」を主張した[458][474][579][604]

トライチュケ・グレーツ・モムゼン論争[編集]
ルター派の歴史学者で国民自由党議員のハインリヒ・フォン・トライチュケは、1879年に発表した論文「われらの展望」で、ユダヤ人は株式相場や出版界を支配するが、ユダヤ人とゲルマン的人間との間には深い溝があり、「ユダヤ人こそわれらが不幸」であり、寛容な最良のドイツ人でも心の奥底ではこうした見解を共有していると論じた[579]。「ユダヤ人は我々の不幸だ」というフレーズはナチス時代にもよく引き合いに出された[605]

この論文の背景にはユダヤ教徒の歴史家ハインリヒ・グレーツの存在があった。シオニズムに近いユダヤ民族主義者だったグレーツは大著『ユダヤ人の歴史』でキリスト教を「宿敵」「不倶戴天の敵」と明確に敵視し、ユダヤ人のキリスト教への改宗を「裏切り者」として厳しく批判した[331]。グレーツは新約聖書をタルムードを使って読み直し、ユダヤ教とキリスト教の亀裂を拡大した[331]。グレーツによれば、イエス神の子だと主張したために告発されたのであり、福音書メシアの出現を後知恵で証明しようとした物語にすぎないと批判した[331][606]。また、タルムードでイエスはヨセフ・パンデラと処女ミリアムとの不倫の子であり、ユダヤ共同体から追われて神の名を用いて奇跡の力を学んだがラビ団のユダに打ち負かされて死刑となったとされるが、グレーツはこれも作り話としてイエスはユダヤ教エッセネ派であるとした[96]

トライチュケはグレーツの本はキリスト教に対する狂信的な怒り、ゲルマン人への憎悪であると批判した[331]。トライチュケはユダヤ人の同化と改宗による編入を希求したが、改宗を拒否したグレーツに対して「わが(ドイツ)民族を理解することも、また理解しようともしないオリエント人」と非難した[331]。トライチュケは人種主義者ではなかったが、ポーランドから流入する東欧ユダヤ人はいつかドイツの新聞と株式を支配するだろうと警告した[331]。実際、ポーランド(ポーゼン)からの東欧ユダヤ人には、『ベルリナー・ターゲブラット』紙社長・新聞広告業でモッセ・コンツェルンを築いたルドルフ・モッセ(弟アドルフは日本の憲法起草に携わった)[607]国民自由党指導者エドゥアルト・ラスカー、経済学者アルトゥール・ルッピン、ゲルショム・ショーレムの曽祖父がおり、そして歴史家グレーツがいた[331]

歴史家テオドール・モムゼンはトライチュケによって反ユダヤ主義は品行方正なものとなったが、反ユダヤ主義は国民感情の堕胎であり、狂信的愛国主義であると評した[579]。モムゼンは『ローマの歴史』などでユダヤ人は歴史を動かす酵母であり、ユダヤ人が諸部族を解体したことでローマ帝国の建設に貢献したと評価し、またテオドール・フリチュやチェンバレンらのユダヤ人を国民集団の破壊者とする反ユダヤ主義に対しては国民感情の妖怪として批判した[331]。しかし、そのモムゼンも、キリスト教は文明人同士をつなぐ唯一の絆であり、ユダヤ人にキリスト教への改宗を執拗なまでにすすめ、トライチュケと同じようにユダヤ人のドイツへの融合(同化)を願った[331][579][608]。モムゼンは、ユダヤ人がドイツ人に同化するには犠牲を払う必要があり、ドイツ文化に友好的に参加すべきであるし、公民の義務を果たし、ユダヤ人の特殊な作法を廃すべきであるとした[331]。モムゼンもユダヤ民族主義者のグレーツを支持したわけではなく、モムゼンはグレーツについて文芸界の隅っこにいる「タルムード学史の編纂屋」にすぎず、ローマ帝国にいたユダヤ人歴史家ヨセフスや哲学者フィロンとは比較にならないほど小さな存在であるのに、なぜそんな相手に論争を挑むのか、とトライチュケを戒めた[331]。モムゼンはトライチュケと同じく国民自由党に所属していたが、トライチュケがビスマルクを支持した一方で、モムゼンはビスマルクを国民統合の破壊者とした[331]。また、モムゼンはリベラル・プロテスタントの「反ユダヤ主義防衛連合」を創立したが、同連合はユダヤ民族主義(シオニズム)に不快感を表明し、「ユダヤ信仰のドイツ国家市民中央連合」を創設してシオニズムに対抗した[331]。反ユダヤ主義防衛連合のアルプレヒト・ウェーバーは、ユダヤ人にも反ユダヤ主義についての責任があるとして、同化を拒否するユダヤ人を批判した[331]。シオニストのヘルツルは、反ユダヤ主義を批判しながらユダヤ人に同化をすすめる反ユダヤ主義防衛連合に対して、自尊感情を持って最後の避難所を見つけようとしているユダヤ人を貶めようとしていると批判した[331]

トライチュケの論文に対するユダヤ人知識人の反応は、ユダヤ人はすでに同化しておりドイツへの愛国心を保有しているというものが多く、同化を拒否するグレーツはヘルツルのシオニズムが登場するまでは例外であった[579]新カント派のユダヤ系哲学者ヘルマン・コーエンはユダヤ教を信奉しながらも同化を勧め[609]、ユダヤ人は皆ドイツ人の容貌を備えていたらどれほど幸せであっただろうと常常感じていると主張した[579]。ユダヤ人の平等を訴えてきた自由主義者のユダヤ人ベルトルト・アウエルバッハ[610]は晩年にキリスト教社会党のシュテッカーやドイツ保守党のハンマーシュテイン[611] によるユダヤ人批判に対して「私はドイツ人であり、ドイツ人以外の何ものでもなく、生涯全体を通してもっぱらドイツ人であると感じてきた」「消え失せろ、ユダヤ人、おまえはわれわれとは何の関係もない」と手紙に書いた[612]

ベルリンでは1880年から1881年にかけて、暴徒がユダヤ人を襲撃したり、ユダヤ人商店やシナゴーグに放火するという暴動が続いた[579]。19世紀末ドイツの反ユダヤ主義を広めたのは学校教員、学生、公務員、事務員、レーベンスレフォルム(Lebensreform 生活改革運動)、菜食主義者生体解剖反対論者、裸体運動や自然復帰主義のナチュリストなどの都会人であり、田舎の農民や貴族の大地主や聖職者ではなかった[613]裸体運動では、ゲルマン人種と、ロマンス人種・スラヴ人種・ユダヤ入種との婚姻が禁止された[614][615]

反ユダヤ主義が高まるなか哲学者ニーチェはユダヤ人に対して繰り返し称賛と感謝を表明し、反ユダヤ主義者を「絶叫者ども」と批判した[308]。ただし、ニーチェは若い頃には反ユダヤ的な偏見を持っており、ワーグナーへの手紙ではドイツの豊かな世界観が「哲学上の狼藉や押しの強いユダヤ気質」によって消え去ったと嘆いたこともあったし[617]、東欧ユダヤ人のドイツ流入には後年でも反対だった[616]

ニーチェは『反時代的考察』(1873年-1876年)で、ダーフィト・シュトラウスや雑誌『グレンツボーテン』の執筆陣を教養俗物として批判し、『グレンツボーテン』もニーチェを批判した[618]。雑誌『グレンツボーテン』の中心にいた作家グスタフ・フライタークは、皇太子フリードリヒ3世のブレーンであった[618]。ニーチェは1875年に「粗野な力と鈍感な知識人」によるキリスト教が「諸民族にあった貴族主義的天才」に対して勝利したと批判し、またキリスト教はその「ユダヤ的性格」のため、ギリシャ的なものを不可能にし、古代ギリシャの範型が消滅したと論じた[616]1878年の『人間的な、あまりに人間的な』では「ヨーロッパをアジアに対して守護したのはユダヤの自由思想家、学者、医者だった」として、ユダヤ人によってギリシア・ローマの古代とヨーロッパの結合が破壊されずにすんだことについてヨーロッパ人は大いに恩に着なければならない、と述べた[308]1881年『曙光:道徳的先入観についての感想』では、ユダヤ人の美徳と無作法、反乱奴隷特有の抑えがたき怨恨について論じたあと、「もしイスラエルがその永遠の復讐を永遠のヨーロッパの祝福に変えてしまうならば、そのときはかの古きユダヤの神が、自己自身と、その創造と、その選ばれた民を悦ぶことができる第七日が再び来るであろう」とユダヤ人に人類再生の希望を見た[308]

ヨーロッパ主義者であったニーチェは「反セム主義」を皇帝とビスマルクのドイツ帝国の下でのドイツ統一運動であるとし、「国粋主義の妄想」「畜群」「奴隷の一揆」と批判した[616][619]。さらにヨーロッパはユダヤ人に最善で同時に最悪なもの、すなわち「道徳における巨怪な様式、無限の欲求、無限の意義を持つ恐怖と威厳、道徳的に疑わしいものの浪漫性と崇高性の全体」を負うており、「ユダヤ人がその気になれば(…)、いますぐにもヨーロッパに優勢を占め、いな、まったく言葉通りにヨーロッパを支配するようになりうるであろうことは確実である」と述べ、ユダヤ古代の預言者は富と無神と悪と暴行と官能を一つに融合し、貧を聖や友の同義語とするなど価値を逆倒し、道徳上の奴隷一揆をはじめたとも論じ[308][620]、ユダヤ人を「ルサンチマンの僧侶的民族」とも評した[621]。ニーチェはユダヤ教を古代の純粋なユダヤ教と、第二神殿以降の祭祀ユダヤ教とを区別し、新約聖書は祭祀ユダヤ教を体現したものであり、キリスト教と祭祀ユダヤ教は奴隷道徳を生み出したと批判し、古代の純粋なユダヤ教を称賛した[616]

ニーチェは、皇帝ヴィルヘルム2世が1888年にルター派教会を把握したことでリベラル・プロテスタントが国民主義の担い手となった[618]結果、反ユダヤ主義が形成されたとみており、パウロの出自であるユダヤ人を称賛したのは、こうした背景があった[616]。さらにニーチェはパウロや使徒によるイエスの神学化を嘘つきでイカサマ師であると非難した[616]

1888年9月の『アンチキリスト』では「ユダヤ人は人類を著しくたぶらかしたために、キリスト教徒は、自身このユダヤ人の最後の帰結であることを悟らずに、今日なお反ユダヤ的な感情を抱いている」と書いた[308]。ポリアコフはこの箇所で、ニーチェは反ユダヤ的な方向へ屈折したとみている[308]。オーバーベックはニーチェの反キリスト教は反ユダヤ主義から来ているとする[616]。また、ニーチェの妹エリーザベト・フェルスター=ニーチェは夫のベルンハルト・フェルスターとともに反ユダヤ主義運動を展開し、のちにナチ党の支援者となった。

「世界帝国」ドイツと全ドイツ連盟[編集]
1891年、英独の植民地を交換したヘルゴラント=ザンジバル協定に抗議してアルフレート・フーゲンベルク(のちドイツ国家人民党党首)が提唱し、軍人、政治家、実業家などによる全ドイツ連盟(Alldeutscher Verband,汎ドイツ連盟)が結成された[474][622][623]。全ドイツ連盟は、汎ゲルマン主義の中心となって、アフリカでの植民地帝国の建設、中央ヨーロッパでのドイツの覇権の確立を要求した[622][623]。社会学者マックス・ヴェーバーシュトレーゼマン(1923年に首相)、生物学者ヘッケルラッツェル、汎ゲルマン主義者チェンバレン、歴史家カール・ランプレヒトも加入した[474][625]

ドイツナショナリズムを支えたのは、フランス、イギリス、スラヴへの敵意や恐れ、国内では社会民主主義の脅威、ドイツは堕落したという意識などであった[593]普仏戦争(1870-71年)で敗北したフランスが復興するとドイツは予防戦争としてシュリーフェン計画を策定した[626]。さらに1894年露仏同盟が締結されると、ドイツにとって対フランス・ロシアの二正面作戦が現実の課題となったため、軍の増強を図った[626]。保護関税と艦隊建設を軸とした農本主義および全ドイツ主義的な「結集政策」が展開され、次第にドイツ・ナショナリズムは帝国主義へ傾斜していった[558]。この頃ドイツ帝国は極東の中国や日本にも干渉するようになった[629]。またドイツ帝国はイギリス海軍に対抗できるドイツ海軍の拡張を目指し、政府はドイツ艦隊協会を結成して帝国主義を鼓舞した[630]

1890年以降、ビスマルク崇拝、皇帝崇拝=ホーエンツォレルン崇拝が広まった[593]1896年に皇帝ヴィルヘルム2は「ドイツ帝国は世界帝国となった」と演説した[631]。同年バルバロッサ神話に基づき、ヴィルヘルム1世を称えてキフホイザー記念碑が建造された[593]。バルバロッサ神話では、第3回十字軍総司令官として出征中に死亡した神聖ローマ皇帝フリードリヒ・バルバロッサが帝国が再興される日までテューリンゲンのキフホイザー近くの山に眠るとされた[593]。また、トイトブルク森の戦いでローマによるゲルマニア征服を阻止したアルミニウス記念碑も建造された[593]。ヒトラーは1914年フランドルの会戦に向かう途中で訪れている[593]

資本主義の進展に伴い、農村の危機が意識されるようになると、ユダヤ人は農民を根こそぎにしてドイツ民族の最も真正なものを破壊する近代産業文明と同一視された[632]。オットー・ベッケルのヘッセン農村運動、1893年に設立された農業者同盟(Bund der Landwirte)は反ユダヤ的であり、フェルキッシュで反ユダヤ的な運動は農村地域でも浸透していった[632]。ヴィルヘルム・フォン・ポーレンツの小説「ビュットナーの農民」(1895)では、農民がユダヤ人に借金し土地を抵当に入れるが、ユダヤ人はその土地を工場に売り、農民は自殺するという筋書きで、ユダヤ人への反感を扇動した[632][633]。カトリック文学改革運動のカール・ ムートは、科学・通商・株式・ジャーナリズムが国際的(インターナショナル)であるのに対して、文学・農耕・手工業・芸術は国民的(ナショナル)なものであるとし、「ユダヤ人はどこにも家を持たず、従ってまたどこにでも家を持つが故に、凡庸な精神の代表者なのである」と批判した[634]

1904年から1907年にかけてドイツ領南西アフリカヘレロ族の反乱をドイツ帝国が鎮圧した時に、ヘレロ・ナマクア虐殺が起こった。

大不況下のフランス第三共和政[編集]


フランス第三共和政(1870年 - 1940年)が1881年出版の自由法を成立させると、フランス市民は自分たちの政治的な意見を自由に表明することが可能となり、反ユダヤ主義的な意見の公表もその権利を保護されることとなった[635]。1881年7月、カトリックの機関誌『同時代人』はロシアのポグロム、そしてドイツとルーマニアでも反ユダヤキャンペーンが猛威を振るっているが、カリクスト・ド・ウォルスキのユダヤ人の今回の不幸は自分の責を問うよりほかに仕方がないのであり、ユダヤ人は太古の昔より地上の支配権を持つことを目的にしていると報じ、その典拠はゲートシュの小説『ビアリッツ』(1868)に求められ、これは『シオン賢者の議定書』で取り入れられた[323]。同じく1881年、パリで『反ユダヤ人(L'Anti-juif) 民族防衛機関誌』が週間で出版された[323][636][637]

1881年末にフランスのカトリック資本系の大手銀行ユニオン・ジェネラル(Union g?n?rale)銀行が破綻すると、同銀行の創始者ボントゥー[638] は破綻の原因をロスチャイルドによる金融操作と述べた[323]。カトリック聖母被昇天修道会のバイイ兄弟が発刊した『クロワ』紙[639]や雑誌「ペルラン(巡礼者)」などで、銀行の倒産はユダヤ系財閥のロスチャイルド家の策謀によるものであるというユダヤ陰謀論が繰り広げられ、財産を失ったカトリック市民の反ユダヤ感情を醸成させていった[635]。この騒動はモーパッサンの『モントリオル』(1887)、ゾラの『金』(1891)、ポール・ブールジェの『コスモポリス』(1893)などの小説で描かれた[323]。また、シャボティー師による『我らの支配者ユダヤ人』[640] やシラクの『共和国の王』など、ユダヤ資本主義論が登場した[635]

左翼のウジェーヌ・ジェリオン=ダングラールは、1882年に刊行した『セム人とセム主義』で、歴史学者ミシュレの『人類の聖書』での昼の民族と夜の民族の区分を引いて、アーリア民族あるいはインド・ヨーロッパ民族だけが偉大な文明と正義と美を持ち、セム人は退化と退廃にあるとし、「セムの血と教義がアーリアを本質とする住民と文明に浸透していくのではないか」と懸念し、セム主義(ユダヤ主義)を「真の国家内国家。これこそは考えうる限りの唯一の社会悪、もっとも恐ろしい国際的災厄である」と主張した[323][641]

プルードン派社会主義者のオーギュスト・シラクはフランス第三共和政の背後にロスチャイルド家をはじめとするユダヤ系銀行家の策謀をみて、1883年に『共和国の王者たち、ユダヤ金融の歴史』を発表した[642][643]

1882年には、反ユダヤ主義の週刊誌『反セム主義 我らが敵、ユダヤ人![644]』、1883年には週刊誌『L'Antis?mitique(反セム)』が創刊された[635][637]

1884年、革命家ブランキの右腕でパリ・コミューン政府のコミューン評議会議員をつとめた革命的社会主義者のギュスタヴ・トリドン[645] は『ユダヤのモロク主義』を出版した[646]。トリドンは同書で、劣等人種セム族は文明の闇、地球の悪であり、ペストをもたらすとして、セム族との戦争は貴種アーリア人の使命であるとした。古代パレスチナのモロク神信仰での人身御供を批判した。なお、レビ記ではモロク神に子供を儀式で捧げることを禁止している[647]

このように第三共和政では、反ユダヤ主義は反教権主義左翼によって担われた[323]。しかし、1880年代になると、フランスの反ユダヤ主義を主導するのは、社会主義からカトリック陣営に引き継がれた[323]

1879年から1881年にかけて、シャボティー神父、クローディオ・ジャネ、ダルゾン神父などが反フリーメイソンと反ユダヤの思想を展開した[323]。エマニュエル・シャボティー神父は1880年には偽名サン=タンドレで『フリーメイソンとユダヤ人』を発表していたが、出版自由法施行後の1882年には本名で『われらが主人、ユダヤ人』を刊行した[323][648]

1882年4月、『歴史問題評論』は「ユダヤ人が世界を牛耳っている。必然的に結論づけられるのは、フリーメイソンがユダヤ化を果たし、ユダヤ人がフリーメイソン化を果たしたという事実である」と報じた[323]。イエズス会は隔月の教皇庁機関誌『チヴィルタ・カトリカ』で中世以来の儀式殺人を取り上げて、ユダヤ攻撃を開始、19世紀末まで間断なく続けられた[323]

1884年、クローディオ・ジャネとルイ・デスタンプは共著『フリーメイソンとフランス革命』を発表した[649]。ジャネは1892年の『19世紀における資本、投機、金融』では、反ユダヤ運動は元来宗教運動であり、反資本主義闘争として反ユダヤを掲げる社会主義は、キリスト教から本質を奪おうとする扇動であると論じた[650][651]

カトリック勢力による反共和主義・反ユダヤ主義の背景には、フランス革命以来の反キリスト教化運動政教分離の過程があり、第三共和政政府とフランス・カトリック教会との熾烈な対立があった[635]。教会は公教育から分離され、カトリックが家庭を破壊すると反対していた離婚法も、フリーメイソンジュール・フェリーや、ユダヤ系のアルフレッド・ナケによって成立した[635]。1880年には政府無許可の宗教団体が解散され、1886年には公立学校教師を非聖職者に限定する法律も成立した。ナケはユダヤ系であったためカトリック司教たちが差別的な言辞を受けた[635]

1880年代当時、フランスのユダヤ人の人口は8万人弱であり、全体の約0.2%であったが、実業や文学、芸術で活躍するユダヤ人が目立った[652]

1880年代に多くの著作でコレージュ・ド・フランス心理学教授ジュール・スーリは、人間は人種に由来する本能によって動かされ、アーリア人種の勇敢さやセム人種の無気力さは本性によるものとした[527]

ドリュモンの反ユダヤ主義[編集]
1886年、ジャーナリストのエドゥアール・ドリュモンが1200ページの大著『ユダヤのフランス』を出版した[653]。ドリュモンはフーリエ派のトゥースネルプルードンなど社会主義的反ユダヤ主義の影響を受けていた[527]。ドリュモンはこの書物の冒頭で「フランス革命で唯一得をしたのはユダヤ人である。すべてはユダヤ人に由来し、すべてがユダヤ人の手元に帰っていく」とし、十字軍から聖ルイ王、アンリ4世、ルイ14世のフランスではユダヤ人に門戸を閉ざしていたのに、共和主義と非宗教性(ライシテ)の近代フランスは「ユダヤ人のフランス」となったとする[652]。さらに、ユダヤ人は「金ずくめで強欲、陰謀と策謀を好む狡猾なセム人」であり、それに対して「情熱豊かで英雄的で人を疑うことを知らないアーリア人」とを対比し、昨今のキリスト教徒迫害は、フランスの破滅を目的をした陰謀の序章にすぎず、巻末では、1800年前からな変わることなくキリストは民衆の家の窓に吊るされ、罵詈雑言にさらされ、そして町には神殺しの執着に衰えをみせないユダヤ人が溢れかえっているとした[652]。また、ユダヤ人は敵国ドイツ人のスパイであり、ドイツのユダヤ人であるロスチャイルドの銀行によって、フランス民衆はドイツとユダヤに搾取されていると論じた[654]。この書物は19世紀フランス最大のベストセラーとなり、フランスの反ユダヤ主義を醸成した[655]。ドリュモンは、従来のキリスト教の反ユダヤ教主義と近代の科学的人種理論とをつなぎ合わせて、新しいタイプの反ユダヤ主義としての反セム主義(antis?mitisme)を拡散させた[655]

ドリュモンは無名で出版社を見つけるのに苦労していたが、ユダヤ人嫌いで有名な流行作家アルフォンス・ドーデが尽力して出版が実現した[655][656]

ドリュモンの『ユダヤのフランス』が出版されると、ドーデは「人種の啓示者」として、批評家でアカデミー・フランセーズ会員のジュール・ルメートル(Jules Lema?tre)は「19世紀最大の歴史家」、ベルナノスは「千里眼を超えた観察者」としてドリュモンを絶賛した[652]。この本に対してユダヤ系メディアは批判したが、聖職者の間で熱狂的な反響を呼び、カトリック系『クロワ』 紙は、反ユダヤ主義者のジョルジ ュ・ド・パスカル神父がユダヤ人に対する「戦友」であると支持し[655]、カトリック系の若いジャーナリストに影響を与えた[657]。さらに高級日刊紙『フィガロ』で編集長フランシス・マニャールが、ドリュモンの主張するユダヤ人財産の没収とは共和主義者によるカトリック教会の財産没収と同じであるし、ドリュモンは共和主義者富裕層に対する「カトリック社会主義者」であると紹介する[658] と、当時最大の大衆紙『プチ・ジュルナル』『マタン』『プチ・パリジャン』、ボナパルティスト、リベラル派カトリック、社会主義急進派など右派と左派を問わずに他のメディアもドリュモンを取り上げた[659]。ただし『プチ・パリジャン』は「狂信的な憎悪の書」「中傷文書」であると批判した[635]。ドリュモンの『ユダヤ人のフランス』には3000人のユダヤ人名一覧が掲載されていた[652]。右派オルレアニストの「ゴーロワ」編集長メイエルがドリュモンの本で「ユダヤ人」として中傷されているのに怒り、決闘を申し込んだ[659]。決闘でメイエルが規則違反をすると、ドリュモンは「汚いユダヤ人!ゲットーへ消えろ!」とわめいて決闘が中止になると、メディアのトピックとなり、やがて「善良なアーリア人が卑怯なセム人にやられた」という噂が広まっていった[659]。ドリュモンの『ユダヤのフランス』はフランスの反ユダヤ主義の醸成に多大な影響を与えていっただけでなく、ドイツ、イタリア、ポーランド語へ翻訳され[635]、また、カリクスト・ド・ウォルスキ『ユダヤ人のロシア』(1887)、ジョルジュ・メーニエ『ユダヤ人のアルジェリア』(1887)、フランソワ・トルカーズ『ユダヤ人のオーストリア』(1900)、ドエダルス『ユダヤ人のイギリス』(1913)などの模倣書が続々と刊行されていった[652]。ドリュモンはその後も著作を立て続けに刊行した[660]

同じ1886年に、社会心理学者ギュスターヴ・ル・ボンは、ユダヤ人は芸術、科学、産業など文明に寄与しうるものを一切手にしてこなかったし、旧約聖書は卑猥な物語を満載したものと非難した[652][661]

1888年パナマ運河疑獄事件では、実業家レセップススエズ運河を建設したあとにパナマ運河の建設に着手したが、技術的に工事が不可能であることが発覚したため債券を発行して資金を集めたが破綻した。レナック男爵とコルネリウス・エルツ、アルトンなど買収工作人がみなユダヤ人であったため反ユダヤ主義が高まった[652]

革命100周年の1889年に、改宗ユダヤ人のジョゼフ・レマン神父は論文『ユダヤ人の優位』でユダヤ人は無実な神の子を死にいたらしめたと述べ、2年後に風刺週刊誌に「ロスチルド家」を発表した[652][662]。1889年9月、カトリック系ジャーナリストのジャック・ド・ビエと陸軍士官学校のマルキ・ド・モレス侯爵[663] が「フランス反ユダヤ同盟(Ligue antis?mitique de France)」を設立し、ドリュモンは会長となった[527][664][665]。副会長のビエの肩書は「民族社会主義者(National-Socialiste)」であり、ナチス党国家社会主義ドイツ労働者党,Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei )の先駆けであった[664]。マルキ・ド・モレス侯爵は北米ダコタ準州に牧畜王国を築き、パリでは反ユダヤ主義とサンディカリスム(労働組合主義)を融合させて、屠殺業者による武闘集団を組織した[666]

1890年、パリ国立割引銀行の経営が行き詰ると、ロスチルド家が原因とされた[652]。同年、カトリック系の新聞『ラ・クロワ』は「フランスで最も反ユダヤ的な新聞である」と自称したが、これは反ユダヤ主義であるということが支持されたためである[652]1891年にはユダヤ人の蔑称であるyoutre(ユダ公)を冠した新聞『反ユダ公(L'Anti-youtre)』が創刊され、これまでの反ユダヤ主義は教権派によるものだったと不満を表明した[652]

1892年、ドリュモンが反ユダヤ主義日刊紙『リーブル・パロール』を創刊し[655]、1892年5月より同紙上でユダヤ人将校は国防機密を取引すると非難するキャンペーンを始めた[667]。ユダヤ人の子弟には軍職に就くものが多く、士官学校でも1%の4万人中300人がユダヤ人であった[667]。なお、『リーブル・パロール』の出資者の利権屋ゲランはその2年前には反ユダヤ主義への戦いと称してユダヤ人に資金提供を求めており、また『リーブル・パロール』の管財人クレミューは改宗ユダヤ人であった[652]。またユダヤ系将校マイエールとモレスの1892年6月23日の決闘でマイエールが死ぬと、ドリュモンはこれほどの勇者の血が戦場で祖国のために流されなかったことを嘆かわしく思うと述べるなど、ユダヤ人であっても「血のよる洗礼」を経れば「よきユダヤ人」になるという観念があり、フランスの反ユダヤ主義はドイツやオーストリアよりも弛みがあったとポリアコフはいう[652]

カトリックの思想家レオン・ブロワは同1892年、ドリュモン一派を批判して、「中世の純粋な反ユダヤ主義」への回帰を主張する『ユダヤ人による救い』を刊行した[668][669]。ブロワによれば、ドリュモンたちの商業化された「左翼的反ユダヤ主義」は、ユダヤ人はフランスの金を盗んだのだから返還すべきだという金儲け主義的な主張にすぎず、これは中世からの反ユダヤ主義の遺産を台無しにした[670]。ブロワは「ユダヤ人の歴史は、あたかも堤防が川を堰き止め、その水位を上昇させるがごとく、人類の歴史を堰き止めている」とし、ユダヤ人とは「キリストの忠実なる友、初期の殉教者全員を生み出した民」であり、中世のヨーロッパはユダヤ人を「専用の犬小屋に押し込め、特殊なぼろ着でくるむことにより、一般人に彼らとの出会いをあらかじめ回避させるという良識(ボン・サンス)を発揮した」と論じた[323]。ブロワの同書では、ユダヤ人は「世界中の醜悪なるものすべての合流点」であり、腐ったボロ着に身を包んだユダヤ人古物商について「チフスを輸出するためか」と不快感を書いている[670]

同1892年、ランス教区広報ではロトシルド家はユダヤ人種のドイツ国籍であり、フランス人ではないと書かれた[652]。クレルモン教区広報では、ドイツ人とユダヤ人はフランス人を敗者・奴隷として扱ってきたと批判した[652]

ドレフュス事件から祖国同盟・アクションフランセーズまで[編集]
1894年、ドイツ大使館付き武官シュヴァルツコッペン[671] のゴミ箱から発見された軍事機密文書は、筆跡鑑定からユダヤ人大尉ドレフュスのものとされ、さらにドレフュスはイタリア大使館からも買収されていると告発された[667]。軍は証拠不十分のまま非公開の軍法会議においてドレフュスに有罪判決を下し、南米仏領ギアナ沖の悪魔島で禁錮刑とした[667]。このドレフュス事件冤罪事件であったが、それまで常軌を逸した奇習にすぎなかったフランスの反ユダヤ主義はこれ以降決定的な潮流となった[652]

ドレフェス事件は国際的な話題となり、ドリュモンは、ドイツ人、イギリス人、イタリア人はなぜ反フランス的な人間であるドレフェスの肩を持つのかと述べた[667]。後にアクシオン・フランセーズの中心的な活動家となるレオン・ドーデは「ドレファスはわれわれフランス人の破滅を画策した。しかし、彼の犯罪はわれわれの意気を高揚させもしたのだ」として、「われらが人種、われらが言語、われらが血のなかの血」以外は信を抱くまいと表明した[667]。作家のモーリス・バレスは、ユダヤ人を「比類なき論理学者で、銀行口座そのままの明晰さ、非人称性に裏打ちされている」と賞賛したり、ディズレーリにも賛辞を捧げた[652]。しかし、ドレフェス事件が発生すると、「ドレフェスが裏切りをやりかねないということを、私は彼の属する人種から判断する」と述べ、バレスはドレフェス事件以降は「国民的エネルギー」三部作でユダヤ人金融業者が「われわれの政府」であると描いた[652][672]

1896年に情報部長ピカール中佐は、真犯人はハンガリー生まれのエステルアジ少佐であることを突き止めたが、軍は権威失墜を恐れてもみ消しを図り、ピカールを左遷、エステルアジを無罪釈放した。

作家ゾラは、1898年1月13日新聞「オーロール」で「私は弾劾する」を発表し、ドレフュスの不法投獄を告発した。しかし、ゾラは告訴され、名誉棄損で有罪となった。1898年の1月と2月にフランス各地で69件の反ユダヤ暴動が起き、アンジェとマルセイユで約4000人,ナントで約3000人、ルアンで約2000人の群衆がユダヤの商店やシナゴーグを破壊した[527]。反ユダヤ主義のデモや暴力沙汰が相次ぐなか、ドレフェス派のフィガロ編集長ロデーは更迭された[667]。アルジェリアで反ユダヤ暴動が発生すると、マックス・レジはドリュモンに立候補を打診した。1898年5月総選挙で、ドリュモンは当選し、アルジェリア選出の3名の議員と議会内で反ユダヤグループができた[673]

1898年夏、ドレフェス有罪の証拠とされてきた文書が偽書であったことをアンリ大佐が認めた後、自殺した[667]。9月6日ガゼット・ド・フランスでシャルル・モーラスはアンリ大佐は「国家の偉大な利益への英雄的奉仕者」であると論じた[673]。またモーラスは「ユダヤ教の育まれた真のプロテスタントは、生まれながらにして国家の敵」と、プロテスタントも敵視していた[673]。1898年12月にドリュモンはアンリ大佐未亡人のための募金活動を開始、ドリュモンやモラスらはアンリ大佐は祖国への殉教者であると主張し、アンリ大佐記念碑のための募金には73名の議員、モーリス・バレス、詩人ジャン・ロラン、ジープピエール・ルイス、フランソワ・コペ−、ポール・ヴァレリー、ポール・レオトーなどの文人詩人が名を連ねた[667][674]

1898年にはフランス祖国同盟、ドリュモンの「全国反ユダヤ青年会」、シャルル・モーラスとアルフォンス・ドーデの息子レオン・ドーデによるアクション・フランセーズなどの反ユダヤ主義組織が誕生し、フランスにおける反ユダヤ主義の頂点であると同時に出発点となった[667]。政治活動家ポール・デルレードは反ドレフュス活動を展開した。

ゾラやフランス人権同盟を結成した人権派がドレフェスを擁護したことに対抗して1898年10月末、教師のドーセとシブトンが哲学教授アンリ・ヴォージョア[675] の助力を得て反ドレフェス文書を作成してリセを一巡した[673]。1898年12月、ヴォージョアとジャーナリストのピュジョが「アクション・フランセーズ」記事でフランスの社会を再建して強力な国家になることを主張した[676]。ドーセらの活動に賛同したアカデミー・フランセーズ会員の詩人フランソワ・コペ、ジュール・ルメートル、モーリス・バレスらは1898年年末から翌年にかけてフランス祖国同盟を結成した。画家のドガルノワール、作家のフレデリック・ミストラル(ノーベル文学賞)、SF小説のジュール・ヴェルヌコレージュ・ド・フランス教授・数学者カミーユ・ジョルダン、物理学者ピエール・デュエムなど多数の学者・芸術家が加盟した[674]。バレスは「ドレフェス事件それ自体は無意味である。重大なのは反軍国主義と国際主義の教義のために、ドレフェスが捏造され利用されている」ことであると宣言した[674]。ただし、祖国同盟では反ユダヤ主義とナショナリズムの教義は退けるとしながら、反ユダヤ主義者も受け入れるとした[674]1899年1月19日、祖国同盟議長ルメートルが、ユダヤ人、プロテスタント、フリーメイソンが連帯して過去の復讐を償わせるために、ここ20年フランスの権力を握っていると演説をした[674][678]。ただし、同盟会員のアナトール・フランスはドレフェス擁護派だった[674]

しかし、祖国同盟の目的のなさに不満を持ったプジョとヴォージョワとシャルル・モーラスは1899年6月、反ユダヤ主義-反議会主義-フランス伝統主義を明言した右翼組織アクション・フランセーズを結成した[676]。アクション・フランセーズはフリーメイソン精神、プロテスタント精神、ユダヤ精神に対して、カトリックを称揚した[676]。モーラスは完全なナショナリズムは君主制の復興にあるとして王政主義を主張した[676]。アクション・フランセーズはドイツの国家社会主義との共通点を持っていたが、民族の祖先についてはキリスト教教派を超えた結束を目指すエキュメニズムの立場をとり、ユダヤ人は考慮外として、ゲルマン人だけでなく、ケルト人、リグリア人、ガラチア人、ギリシア人、ローマ人も神殿に迎え入れた[434]。純粋なアーリア人の血統を顧みないアクション・フランセーズに対して、後年1940年代にパリのナチス支持のフランス人民党員の人類学者ジョルジュ・モンタンドン[679] は「アクション・マラーノ」と批判した[434]

社会主義者ギュスタヴ・テリーは反軍国主義、反教権主義、反ユダヤ主義であり、創刊したルーブル紙では「ユダヤ人は敵」、「ユダヤ禍」「権力が組織するユダヤ侵略」「いたるところにユダヤ人」という決まり文句が多用された[680]。また、『シオン賢者の議定書』は1897年から1899年のあいだにパリで練り上げられた[667]。『シオン賢者の議定書』はロシア帝国内務省警察部警備局パリ部長のピョートル・ラチコフスキーが現在も身元不明の作者に依頼して作成したものであった[667]

ゾラの「我弾劾す」を掲載した「オーロール」紙主幹で社会主義者のクレマンソーはドレフェス擁護派であったが、1898年の『シナイの麓にて』ではユダヤ人は「爪を尖らせた両手でいかがわしい品々にがめつくしがみつく」、活力に満ちた人種であり、「この世で最も貴重な人間の宝」であると賞賛する一方で、「みずからの神々をわれわれに押しつけようとしたがために、蔑まれ、憎まれ、迫害され続けてきた彼(セム人)は、地上の覇者となることによって立ち直り、みずからを完成に導こうとしている」と述べ、「アーリア的理想主義の見地から、私はこの事実(ユダヤ人の活力)を一つの不幸としてとらえている」と論じた[667][681]。クレマンソーによれば、キリスト教徒はユダヤ人を根絶する必要性を感じているが、しかし、それはキリスト教徒の素行を正すだけでその必要はなくなるとした[667]

1899年9月の軍法会議再審でドレフェスは禁錮10年に減刑された[682]

反セム主義政党・団体とシオニズム運動[編集]


19世紀末には反セム主義を標榜した政党が続出した。一方でユダヤ人はシオニズム運動を展開していった。

1878年、キリスト教社会党(Christlich-soziale Partei)がベルリンで結成。ドイツ宮廷司祭アドルフ・シュテッカー。
1879年、ドイツで反セム主義者連盟(Anti Semiten Liga)結成。ヴィルヘルム・マル。
1886年、ドイツでテオドル・フリッチュがドイツ反ユダヤ協会を設立。
1889年、ジャック・ド・ビエとマルキ・ド・モレスがフランス反ユダヤ同盟(Ligue antis?mitique de France)を結成した。ドイツではゾンネンベルク(Max Liebermann von Sonnenberg)がドイツ社会党(Deutschsoziale Partei)を結成した。
1890年、ベッケル(Otto B?ckel)が反ユダヤ国民党(Antisemitische Volkspartei)結成。
1892年ドイツ保守党がティヴォリ綱領で反自由主義・反社会主義・反ユダヤ主義を掲げた[683]。また、ドイツ中部・西南部では困窮した農民による反ユダヤ農民運動が展開した[683]
1893年
テオドール・ガルニエ師がカトリック的ポピュリズムの組織「ユニオン・ナショナル」を設立[527]
ドイツ帝国議会選挙でドイツ社会党、反ユダヤ国民党など反ユダヤ諸党の議席数が5席から16席となった[683]。ドイツ社会党らは院内会派としてドイツ改革党を結成し、代表にジンマーマンが就任した。背景は農業関税の引き下げにあるとされる[683]
5月、ドイツユダヤ人最大組織のユダヤ教徒ドイツ国民中央連盟が結成[684]
1894年
フランスでデュビュ(Dubue)が「反ユダヤ青年(Jeunesse antisemitique)」を設立[527]
ドイツ改革党はドイツ社会改革党(DSRP)へ改名し、最大の反ユダヤ主義政党となり、「ユダヤ人問題は20世紀最大の問題となるであろう、そしてそれはユダヤ人の完全な分離と、最終的にはその絶滅によって解決される」と党の方針に明記した[8]
1896年ドレフュス事件に衝撃を受けたテオドール・ヘルツルは『ユダヤ人国家』を著してシオニズム運動を起こした。ヘルツルは「フランスのユダヤ人はもうユダヤ人ではない」と述べたが、これはフランスのユダヤ人の同化が進んでいたためであり、フランス人への同化を主張するユダヤ長老会議(コンシトワール)は、「フランス革命をもってすでにメシアの時代が到来済みである」と唱え、また多くのユダヤ人思想家たちがキリスト教徒よりもフランス人でありたいと公言していた[652]。翌1897年、ヘルツルはバーゼルで第1回シオニスト会議を主催した[667]。ヨーロッパのみならず、ロシア、パレスチナ、北アフリカなどから200人以上の代表が集まり、白と青の二色旗が掲げられた。
1897年春、実業家ジュール・ゲランが「反ユダヤ同盟」を結成した[527]。モレス侯爵が国政選挙活動のためにつくった反ユダヤ組織を再建したもので、「国民の労働」を擁護して、フランスで銀行や鉄道等の企業を所有するユダヤ人のくびきからフランス人と国民を解放することが目指され、ユダヤ人の公職追放を主張した[527]
1902年、シオニストのヨーゼフ・クラウスナーは『タンナイ時代におけるユダヤ民族のメシア的理念』で、イエスはメシアではありえず、預言者として認められたわけではないとした[685]
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出典:Wikipedia
2019/08/12 21:30
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