反ユダヤ主義
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6.近代の反ユダヤ主義
6.4.ウィーン体制(1815-1848)の時代
ナポレオンの敗北以降のウィーン会議(1814-1815年)では1792年以前への復帰と勢力均衡が原則とされた[347]。また各地のナポレオン法典は無効とされ、ユダヤ人政策は各国家の自由裁量となった[288]

ウィーン会議以降の国際秩序をウィーン体制と呼び、1848年革命に崩壊するまでの時代を指す[348]ナポレオン戦争に勝利したオーストリア、ロシア、プロイセンの復古勢力は革命の再発を防ぐために、1815年にキリスト教的友愛による平和を提唱する神聖同盟を締結、オーストリアの宰相メッテルニヒが主導して1818年にイギリスと敗戦国フランスを加えた五国同盟を締結してウィーン体制を確立した[348]。五国はドイツの自由主義運動を弾圧した[348]

スペインではナポレオン軍の敗北によりジョゼフ・ボナパルトは追放され、スペイン・ブルボン復古王政フェルナンド7世が復位した。これに対して自由主義者リエゴスペイン立憲革命を起こし、イタリアでもカルボナリ党がスペインを模倣してナポリ・ピエモンテで蜂起したが、革命の波及を恐れた五国同盟によって両者は鎮圧された[348]

他方で、イスパノアメリカ独立戦争(1808-33)などを通じてラテンアメリカ諸国が相次いでスペイン帝国からの独立を果たし、スペインは中南米植民地を失っていった(ラテンアメリカの独立)。さらに1821年からオスマン帝国よりの独立を目指したギリシャ独立戦争が始まり、これをめぐる諸国の利害衝突によりウィーン体制は揺らいだ。当初ウィーン体制は正統主義を主張してギリシャの独立を否定していたが、ロシアが正教会弾圧を理由に介入を開始し、さらにイギリスとフランスが介入、ナヴァリノの海戦露土戦争で連合軍に敗北したオスマン帝国は1832年ギリシャ独立を認めた。列強はバイエルン王子オットーをギリシャ王オソン1世とするギリシャ王国を樹立した。

一方、1830年フランス7月革命に対抗してロシア、オーストリア、プロイセンが1832年10月に旧秩序維持を再確認したが、革命干渉を忌避したイギリスとフランスが真摯協商を結んだことでウィーン体制は分裂し、各国の1848年革命によって崩壊した[348]

ウィーン体制下のドイツ[編集]


愛国学生運動(ブルシェンシャフト)と自由主義[編集]
ウィーン会議で承認されたウィーン議定書によって出現したウィーン体制により、オーストリア帝国主導でかつての神聖ローマ帝国の領域にほぼ合致したドイツ連邦(Deutscher Bund)が成立した[166]。しかし、ドイツ連邦はかつての神聖ローマ帝国の再興とはいいがたく、ナポレオン統治下の陪臣化で消滅した群小諸邦の君侯は復位できなかった[349]。また、ドイツ国民にとっての新体制ドイツ連邦は、従来の領邦国家体制と変わらず、対ナポレオン戦争=ドイツ解放戦争で一体となって戦い、国民的な国家を期待していたドイツ国民は失望した[166]。ライン川西岸一帯のラインラントプロイセン王国に割譲され、また、プロイセンはオーストリア主導に反発を強めた。ウィーン体制は1848年革命で崩壊した。

エルンスト・アルントの発案で1814年10月に諸国民戦争(ライプツィヒの戦い)1周年記念式典が催され、最初のドイツ国民祝祭となった[166]。式ではユダヤ人も参加した[301]

ドイツ解放戦争に志願兵として参加した学生たちはドイツ国民の統一国家を期待していたが、ウィーン体制ではドイツの君主国諸国家への分裂を固定化されたため、祖国の現状に不満を抱いて、学生結社ブルシェンシャフト運動を展開した[350]1815年に結成されたブルシェンシャフト主流派のイエナ大学の結社は愛国心の涵養と心身練磨をはかり、ギーセン大学のカール・フォレンはドイツに自由で平等な共和国を目指した[350]

1816年新カント派自由主義の哲学者ヤーコプ・フリースは『ユダヤ人を通じてもたらされるドイツ人の富ならびに国民性の危機について』において、「ユダヤ人のカーストを根こそぎ絶滅に追いやること」を訴えた[351]

1817年10月18日ルター新約聖書をドイツ語に翻訳したアイゼナハヴァルトブルク城で、宗教改革300周年のヴァルトブルク祭が学生結社ブルシェンシャフトによって開催された[166][350][352]。ヴァルトブルク祭には全ドイツから460人以上のブルシェンシャフトの学生運動家が結集し、祖国ドイツへの愛と、ドイツ統一とドイツの自由と正義とが高唱された[166][350]。教育者でドイツ国民運動家のヤーンは、哲学者ヤーコプ・フリースとともにこのヴァルトブルク祭の立役者であった[343]。祭典にはフリース、医学者キーザー、科学者オーケン、法学者シュバイツァーが来賓として参列した[352]。フリースの門下生レーディガーは「祖国のために血を流すことのできる者は,どうすれば最もよく平和のときに祖国に尽くすかについても語ることができるのだ。こうして我々は自由な空のもとに立ち,真理と正義を声高に口にする。何となればもはやドイツ人が狡猜な密偵や暴君の首切り斧をおそれることなく,またドイツ人が聖なるものと真理を語るときに誰も気兼ねする必要のない、そんな時代が有難いことにやって来たのだ。......我々はすべての学問が祖国に仕えるべきであり,同時にまた人類の生活に仕えるべきであるということを決して忘れまい」と演説し、この演説は国務大臣で文豪のゲーテも称賛した[352]。この祭典では、反ドイツ的とされた書物が焚書され、ユダヤ系作家ザウル・アシャーの『ゲルマン狂』も焼かれ、後年のナチス・ドイツの焚書の先駆けともなった[343][352]。こうしてドイツの大学を温床として、人種差別的な汎ゲルマン主義が生まれていった[343]。メッテルニヒはこうした過激化した学生運動に警戒を強めた[350]

メッテルニヒによる学生運動の弾圧[編集]
1819年3月には、ブルシェンシャフトの自由主義と愛国思想を雑誌で揶揄していた作家アウグスト・フォン・コツェブー(August von Kotzebue)が、ロシアのスパイとして過激派の学生に暗殺された[166][343][353]。この事件以後、メッテルニヒは1819年9月20日カールスバート決議で学生運動と自由主義運動の弾圧を決定し、出版法による検閲制度、大学法、捜査法などによる革命運動の取締りをドイツ連邦全土で強化した[166][350]。マインツには革命的陰謀や煽動的結社運動を監視する委員会が置かれた[350]。フリースやアルントやヴェルガ−兄弟など著名な教授は大学から追放され、ヤーンは大逆罪で幽囚され、シュタインやグナイゼナウら改革派も政界から追放された[343][350]。1848年の3月革命まで出版は制限され、新聞や雑誌の発行部数は激減したが、出版に代わって祝典や集会が盛んに行われるようになった[166]。また急進派は地下に潜り、1833年4月にはフランクフルトで衛生兵襲撃事件が起こった[350]

飢饉と食料危機を契機として[288]1819年8月から10月にかけて、プロイセン以外のヴュルツブルクなど全ドイツの各州、ボヘミア、アルザス、オランダ、デンマークで反ユダヤ暴動が発生し、ユダヤ人が暴行を受け、シナゴーグや住宅は略奪された[354]。暴動では1096年に十字軍兵士が叫んでいたとされる「ヒエロソリマ・エスト・ペルディータ(Hierosolyma Est Perdita)」(エルサレムは滅んだ)という言葉に因んで「Hep! Hep!」という合言葉が使われたため、「ヘップヘップ暴動」もいう[354]。この暴動で、アメリカ合衆国へのユダヤ人移住が活発になった[354]ユダヤ教徒サロン主催者のラーエル・ファルンハーゲン=レーヴィネは暴動の責任は作家アルニムブレンターノ一派にあると見た[354]

1819年11月からの連邦議会でメッテルニヒはドイツ連邦は自由都市をのぞいて君主国であり、各邦はドイツ連邦国元首のもとに統轄されるというウィーン最終規約を定めた(1820年5月15日発効)[350]。ドイツ各邦を連邦政府の監視下におく君主制原理が貫徹された[350]

1819年、フント・ラドヴスキは、16世紀の改宗ユダヤ人プフェファーコルンと同題の『ユーデンシュピーゲル(ユダヤの鑑)』を刊行し、ユダヤ男は去勢し、ユダヤ女は売春婦になれと主張した[355][356]。『ユダヤの鑑』という同題の著作は、1862年にヴィルヘルム・マル、1883年にルーマニア出身の改宗ユダヤ人ブリマン[357]、1884年にプラハ大学教授アウグスト・ローリング神父、1921年にドイツ民族防衛同盟員の詩人フィッシャー=フリーゼンハウゼンが出版した[358]

1820年、作家アヒム・フォン・アルニムは小説「世襲領主」で、世襲領主が零落するなか、路地から這い出てきた強欲なユダヤ人を描いた[359]。アルニムは義兄のクレメンス・ブレンターノとともに、ベルリンで「ドイツキリスト教晩餐会」を開催し、ユダヤ人は改宗者であっても入会禁止とした[359]

1820年、オスマン帝国からの独立を目指してギリシア独立戦争をはじめた。ギリシアでは、フランス革命やドイツロマン主義の影響でナショナリズムが台頭していた。当初ウィーン体制下のヨーロッパ諸国は正統主義によってオスマン帝国を支持したが、ロシアがロシア正教を攻撃したオスマン帝国へ国交断絶を通告し、1828年にロシアは露土戦争を始めた。ロシアの影響拡大を恐れたイギリスやフランスも介入して、1830年ロンドン議定書でギリシアの独立が承認された。

1823年にはベルリンのユダヤ人の半数がキリスト教に改宗した[360]

1824年バイエルン王国皇太子ルートヴィヒ1世はドイツの偉人を祀ったヴァルハラ神殿を建設した[361]。ヴァルハラ神殿にはドイツ2000年の歴史を示す偉人、例えばローマ帝国によるゲルマニア征服を阻止したアルミニウスから、西ゴート族の王アラリック1世フランク王国の王クロヴィス1世ベートーヴェンなどの銘板胸像が収められている。

1820年代後半以降には、出版に代わって祝典や集会が盛んに行われるようになり、デューラー300年記念祭(1829)、ハンバッハ祭(1832)、グーテンベルク祭(1837、1840)、シラー記念祭(1839 )、ドイツ合唱祭(1845)などが開催され、政府による取締を逃れてドイツ民族の英雄が称賛され、ドイツ統一と国民連帯を要求することができた[166]。また1841年からは記念碑が作られる運動が高まり、ジャン・パウル、モーツァルト、ボニファティウス、バッハ、ゲーテなどの記念碑が作られていった[166]

1830年1834年にもドイツで反ユダヤ暴動が発生した[354]

民族の祭典:ハンバッハ祭とドイツ国民運動[編集]
1818年に公布されたバイエルン憲法では出版の自由も明記されるなど、ナポレオン法典で認められていた権利が保証されていたが、1830年フランス7月革命以降、バイエルン王国政府は検閲を強化した[362]。ジャーナリストのヤコブ・ジーベンプファイファーとゲオルク・ヴィルトはドイツの再統一のために自由な言論は唯一の手段であるとする「ドイツ自由出版祖国協会」を結成したが、バイエルンほかプロイセンやハンブルクでも禁止された[362]。ジーベンプファイファーは憲法記念祭に代わる「民族祭典(Volksfest)」を計画して、5月27日に「ドイツ5月祭」をハンバッハ城で開催することを宣伝した[362]。このハンバッハ祭は「内的 ・外的な暴力廃止のための祝祭」であり、「法律に保証された自由とドイツの国家としての尊厳の獲得」を目的とした[362]ライン・バイエルン政府では、フランス占領時代から集会は禁止されていたが、祝典(Festmahl)や民族祭典(Volksfest)は許可されていた[362]。しかし、祭典を禁止しようとしたライン・バイエルン政府に対して参事会が反対し、政府は禁止命令を撤回したが、撤回は前代未聞であり、政府の敗北とみなされた[362]

こうして1832年5月27日から6月1日までバイエルンのプファルツに3万余が集まった「ドイツ5月祭=ハンバッハ祭」が開催され、ドイツ統一と諸民族の解放、人民主権や共和制の樹立などが叫ばれた[362]。参加者は「ドイツ祖国とは何か」「輝きの渦のなかの祖国」といった歌を歌いながら行進し、医師ヘップはドイツ統一とドイツの自由によってドイツは再生すると演説した[362]。ハンバッハ祭にはドイツの自由の守護神として学生たちから歓迎されていたユダヤ系のルートヴィヒ・ベルネがパリから参加した[362]。ベルネは、ポーランド・ロシア戦争でユダヤ人3万人がポーランド支援のためにかけつけ、ポーランドという祖国を戦い取ろうとしているのに対して、「ユダヤ人をひどく軽蔑している誇り高く、傲慢なドイツ人には祖国が未だない」と述べている[362][363]。また、フリッツ・ロイターも参加した。

ジーベンプファイファーは演説で「国民と呼ばれるうじ虫は地べたをうごめきまわっている」と述べ、祖国の統一を望むことさえ犯罪になるのだと主張し、34人のドイツ諸国家の君主を「国民の虐殺者」と罵り、君主が王位を去り市民になることを求めた[362]。ヴィルトは祖国の自由のための戦いには、外国の介入なしで独力でなされなければならないと愛国主義を演説した[362]。しかし、その後の演説では、革命を望まないという商人の演説がなされる一方で、弁護士ハルアウァーは臆病な奴隷でいるよりも名誉の戦死をすべきだと訴えたり、ブラシ職人ベッカーは武装市民だけが祖国を守ると演説するなど意見が分かれた[362]。祝祭後、指導者は臨時政府国民会議の結成を模索したが、結局、祖国出版協会名が「ドイツ改革協会」に変わるにとどまった[362]

パリにいたハイネはドイツの本質は王党主義であり、ドイツは共和国ではありえず、ドイツ革命もドイツ共和国の誕生もそんなに早くはこない、と同情しながら批判した[362]。ハイネは革命を説くベルネに対して「テロリスト的な心情告白」として批判し、ベルネが「最下層の人々のデマゴーグ」になったのは、「人生において何もなしえなかった男の自暴自棄な行動」と非難した[364][362]。ベルネもハイネも改宗者であり、ドイツ人名に改名していた[288]

ハンバッハ祭後、ドイツ各地で倉庫や市場が過激派によって襲撃されるなど、混乱が広まり、1832年6月24日、バイエルン政府軍は戒厳令を発令した[362]。メッテルニヒは革命運動の拡大を恐れて弾圧を強化し、ヴィルトやジーベンプファイファーなど多くの活動家が逮捕拘禁されて有罪判決を受けた[362][365]。1833年4月には「出版祖国協会」過激派50人がフランクフルトで警察を襲撃し、1800人が逮捕された[365]。しかし、その後もドイツ国民運動は非政治的な協会の姿をとって持続し、10万人以上のメンバーを持った男性合唱協会はドイツ語の民謡を普及させ、またヤーンの体操協会なども、ドイツ国民意識の形成に大きな役割を持った[365]

青年ドイツ派[編集]
1834年にハイネは「キリスト教は、あの残忍なゲルマン的好戦心を幾分和らげたが、しかしけっして打ち砕くことはできなかった」として、カント主義者、フィヒテ主義者などの哲学者に気をつけるように警告して、ゲルマン主義者から大きな憤慨を買った[367]。他方でハイネは同年、われわれドイツ人は最も強く知的な民であり、ヨーロッパの王位を占めており、わがロスチャイルドは世界のあらゆる財源を支配していると書いた[302][368]

1835年、フランクフルト議会はグツコー、ハインリヒ・ラウベ、ムント[369]、ヴィーンバルク[370] や、ユダヤ系作家のハイネベルネなども参加していた青年ドイツ派の作品を禁書処分にした[371]。青年ドイツ派はユダヤ系サロンの主催者ラーエル・ファルンハーゲン=レーヴィネの影響を受けていた[371]青年ドイツ派であったがゲルマン主義者でもあった文芸批評家メンツェル[372] はドイツ人は地球史上最も好戦的な民族であり、ローマ帝国を解体し、全ヨーロッパを支配したと述べ[302]、青年ドイツ派を「青年パレスティナ派」と告発した[371]。青年ドイツのH・ラウベは親ユダヤ的だったが、1847年にユダヤ系作曲家マイアーベーアから盗作の嫌疑で告訴されてからユダヤ人を嫌うようになった[373]

1835年、作家ティークはユダヤ人は国家内異分子であり、ドイツ文芸を独占してしまったと述べた[374]。作家インマーマンの『エピゴーネン』(1836年)では、ヤーンが指定した服装を着ていた登場人物が迫害されるが、ドイツ人に化けたユダヤ人の追い剥ぎであった[374]。この作中でユダヤ人は「何かを手に入れようとしてうちは恭しく、きわめて低姿勢だが、いったんそれを手に入れると居丈高になる」と描かれた[374]

1842年、若い頃にドイツ解放戦争を経験したプロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世(在位:1840 - 1861)はキリスト教ゲルマン主義を信奉し、忌まわしいユダヤ人はドイツを混沌とした無秩序状態におとしめようとしていると述べ[375]、ヤーンに鉄十字章を授与し、アルントの名誉回復を行った[327]。王の養育係はユダヤ人をゲットーに再送すべきであると考えていた法学者サヴィニーだった[327]。プロイセン政府は、ユダヤ人の兵役義務を免除すると同時に公職から退け、王の庇護下にある「隔離民族」とするユダヤ人囲い込み法案を提出した[376]。1842年2月、ラビのフィリップゾーンの批判に対してカール・ヘルメス[377] は、キリスト教国家プロイセンにおいてキリスト教徒とユダヤ教徒との法的平等は自己矛盾になると反論した[376]。ヘルメスは無神論哲学者ブルーノ・バウアーに対してもキリスト教の敵として批判した[376]。ユダヤ人共同体からのドイツへの愛国心をアピールした抗議が相次ぎ、この政策は実現しなかった[327]

1844年、ドイツで反ユダヤ暴動が発生した[354]1845年、小説家シェジーはユダヤ人がドイツ国民を隷属状態に置くために解放運動に精を出していると描いた[378][379]

1847年、プロイセン連合州議会代議士ビスマルクはフランクフルト市議会で、ユダヤ人が国王になると考えただけで深い当惑と屈辱の感情が沸き上がってくるし、フランクフルトのアムシェル・マイアー・フォン・ロートシルトは「正真正銘の悪徳ユダヤ商人[380]」であるが、気に入ったと好意を寄せることも述べた[381]

ウィーン体制下のフランス[編集]


フランス7月革命とドゥーズ事件[編集]
1830年フランス7月革命オルレアン家ルイ・フィリップが国王になり、ブルボン家はイギリスへ逃れた。

1832年、ブルボン家の元国王シャルル10世の息子の妻ベリー公爵夫人マリー・カロリーヌ・ド・ブルボンが、改宗ユダヤ人シモン・ドゥーズの密告によって、ルイ・フィリップ政府に引き渡された[382]。これに対して作家フランソワ=ルネ・ド・シャトーブリアンは「大いなる裏切り者と、サタンに取り憑かれたイスカリオテのユダの末裔」と非難した[382]。また作家ヴィクトル・ユゴーも「卑しき異教徒、変節漢、世界の恥辱、屑ともいえるような輩」である「さまよえるユダヤ人」と述べて非難した[382]。ユゴーはまた「クロムウェル」(1827)「マリー・チュードル」(1833)では大量のキリスト教徒の血が流れるのを望むユダヤ人を描き、「嘘と盗み」がユダヤ人のすべてであるというセリフがあった[383]。ユゴーは1882年の「トルケマダ」でイスラエルに謝罪した[383]

「さまよえるユダヤ人」[編集]
「さまよえるユダヤ人」の伝説は近世にさかのぼる。1602年、ドイツのクリストフ・クロイツァーが『アハスウェルスという名のユダヤ人をめぐる短い物語』で、ユダヤ人はイエス磔刑の証人としてイエス再臨(最後の審判の)までさまよい歩くという劫罰を言い渡されたという「さまよえるユダヤ人」の伝説を出版した[3]。この伝説の背景には、1208年のインノケンティウス3世の勅書での「イエスの血の叫びを身に受けてやまないユダヤ人たちはキリスト教徒の民が神の掟を忘れないようにするため、決して殺されてはならない」が、ユダヤ人はキリスト教徒が主の名を探し求める時代が来るまで地上のさすらい人であり続けなければならないという記述がある[3]

「さまよえるユダヤ人」という主題は16世紀以来の伝説で、ゲーテ、シューバルト、シュレーゲル、ブレンターノ、シャミッソー、グツコー、バイロン、シェリー、ワーズワースたちが扱い、1833年には共和党左派の歴史家エドガール・キネが『さまよえるユダヤ人―アースヴェリュス』で労苦にあえぐプロメテウスファウストの象徴を援用した[384]1844年シューは「さまよえるユダヤ人」を連載した[384]。こうしてユダヤ人への神話的なイメージは、裏切り者であった「イスカリオテのユダ」から、「さまよえるユダヤ人」に変わっていった[384]

世紀末には精神科医シャルコーがユダヤ人は放浪生活という神経疾患にかかりやすいと考え、助手のアンリ・メージュ[385] に「さまよえるユダヤ人」の研究を委託し、メージュはユダヤ人の放浪癖、旅行病は人種的な神経疾患であると結論した[386]

ダマスクス事件[編集]
1840年2月、シリアのダマスクスカプチン会修道士トマ神父が失踪した[387]。フランス領事は地元のユダヤ教徒たちが事件の黒幕と断定し、ユダヤ教徒たちを儀式殺人の容疑で告訴した[387]。ユダヤ教徒たち2名がオーストリア国籍であったため、オーストリア領事はユダヤ人を救援しようとした[387]。当時エジプト・トルコ戦争(1831年〜1840年)でオスマン帝国とエジプトが対立しており、東方問題としてヨーロッパ各国の外交問題ともなっていた。エジプト・トルコ戦争の講和条約ロンドン条約でイギリス、ロシア帝国、オーストリア帝国、プロイセン王国各国はオスマン帝国を支持し、エジプトのムハンマド・アリーのシリア領有放棄とエジプト総督就任を認める一方で、フランスのティエール政府はエジプト総督ムハンマド・アリーを支持しており、ダマスクス事件の対処でも対立した[387]。ダマスクス事件によって、フランス国内では、東方ユダヤではいまなお儀式殺人という迷信をユダヤ教徒の義務として定めており、カプチン神父はユダヤ人に食べられたなど、反ユダヤ主義と愛国主義が流布した[387]。イギリスではフランスへの反発もあって、ロンドン市長がユダヤ人モンテフィオーレ卿(Mo?se Montefiore)、フランスのアドルフ・クレミューとムンクの特使団を派遣した[387][388]。ティエールの解任で国際紛争は幕切れとなった[387]。この解任にはロスチャイルド家のジャムが働きかけたという見方もある[387]

この事件後、クレミューは国際組織「世界イスラリエット同盟(AIU, L'Alliance isra?lite universelle)」を創立し、1842年にはクレミュー、セルフベール、フールドの3人のユダヤ人がフランス下院議員となった[387]。ユダヤ新聞「イスラリエット古文書」は、もはや分裂の種も、宗教の差異も、永年の憎悪もなくなった、「ユダヤ民族なるものはもはやフランスの土地には存在しない」と報道した[389]

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出典:Wikipedia
2019/08/12 21:30
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