都営地下鉄大江戸線
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2.沿革
2.1.建設までの経緯
前述した答申第15号に基づき、1974年(昭和49年)8月に全線(現在の光が丘駅 - 都庁前駅間全線・放射部及び環状部)の地方鉄道敷設免許を取得し、1985年(昭和60年)頃の全線開業を目標に建設計画を進めていた。また、この時点では新宿線と同様の従来車両規格(20 m 車両による10両編成)で建設することを計画していた。

しかし、1973年(昭和48年)のオイルショックによる社会情勢の急変、また交通局の財政悪化から、建設計画が一時凍結された。

その後、1978年(昭和53年)5月に東京都知事諮問機関である東京都交通問題対策会議において地下鉄12号線を「再度交通需要の予測を行い、路線立地、交通機関の構造、経済性、補助制度等を検討のうえ建設されるべきである」と提言された。

さらにグラントハイツ跡地(光が丘地区)に大規模住宅団地建設をはじめとした再開発を行うことが決定され、交通網整備の必要性が高まった。そのため、東京都が1982年(昭和57年)12月に策定した『東京都長期計画』の10ヵ年計画において、地下鉄12号線を建設することが決定された。特に、この時点で需要の見直しや建設費用の見直しを行い、小型地下鉄車両(16.5m車両による8両編成)によるトンネル断面の縮小、駅設備を縮小する方針とすることを決定した。これは大江戸線着工前までに同線以外で地下鉄の延伸開業が相次いでいたことも影響している。

また、環状部区間の建設は早期の建設、全線同時開業を行う必要性があることから、資金面などにおいて柔軟な対応ができる第三セクター方式で建設することとされた。そして、1988年(昭和63年)7月に東京都地下鉄建設が設立され、第3種鉄道事業者として環状部の建設を行った。同社が建設・製造した鉄道施設・車両は東京都交通局が長期分割支払いで譲受し、放射部と一体で経営を行うこととされた。

建設時のルートは現在のルートと若干違い、西新宿五丁目駅汐留駅築地市場駅飯田橋駅を経由しておらず、都庁前駅もL字型2層構造でホームを建設する計画があった。ルート見直しは大型車を使用する必要性がなくなり、さらに建設費低減の必要があったためでもある。

環状ルートの建設も検討されたが、これを実現するためには新宿新宿西口を結ぶ新たな線路の建設と、2駅のうち1駅を2面化する工事を行わなければならなかった。しかし、両駅の地上部は道路幅が狭くビルが密集し、2面ホームの設置が難しく、難工事による費用と期間の膨大が懸念され、さらに新宿駅前後の環状方向の旅客流動は少ないと見込まれ、費用対効果を検証した結果、6の字型ルートとなった。

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(1.2.路線データ)
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(2.2.リニアモーター方式の採用)
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出典:Wikipedia
2020/01/26 02:00
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