日本
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1.国号
1.3.国号の由来

概説


日本では、大和政権が統一以降に自国を「ヤマト」と称していたようであるが、古くから中国朝鮮は日本を「」と呼んできた。石上神宮七支刀の銘や、中国の歴史書(『前漢書』『三国志』『後漢書』『宋書』『隋書』など)や、高句麗広開土王碑文も、すべて倭、倭国、倭人、倭王、倭賊などと記している。そこで大和の代表者も、外交時には(5世紀の「倭の五王」のように)国書に「倭国王」と記すようになった[57]
しかし中国との国交が約120年に渡って中絶した後、7世紀初期に再開された時には、『日本書紀』では「東の天皇が敬いて西の皇帝に白す」、『隋書』には「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや」とする国書を日本側が渡した記述があり、従来のように倭と称する事を避けている。中国側では『旧唐書』の「東夷伝」に初めて日本の名称が登場し、「日本国は倭国の別種なり。其の国、日の辺に在るを以ての故に、日本を以て名と為す」「或いは曰く、倭国自ら其の名の雅ならざるを悪(にく)み、改めて日本と為す」「或いは曰く、日本は旧(もと)小国、倭国の地を併す」のように、倭が名称を日本に変えた理由を説明している[58]。また、『新唐書』においては「国日出ずる所に近し、以に名をなす」とあり、隋書の「日出処天子」と共通している。
この7世紀には、遣隋使に続いて遣唐使がしばしば派遣されているが、いつから「倭」に変えて「日本」を国号と変えたのかは明らかでない[59]。使者の毎回の交渉について詳しく記述している『日本書紀』も、8世紀に国号としての日本が確立した後の書物であり、原資料にあった可能性のある「倭」の字を、国号に関する限りすべて「日本」と改めている。それ以外の文献では、733年(天平5年)に書かれた『海外国記』の逸文で、664年(天智3年)に太宰府へ来た唐の使者に「日本鎮西筑紫大将軍牒」とある書を与えたというが、真偽は不明である。結局確かなのは『続日本紀』における記述であり、702年(大宝2年)に32年ぶりで唐を訪れた遣唐使は、唐側が「大倭国」の使者として扱ったのに対し、「日本国使」と主張したという。『旧唐書』の「東夷伝」の記事も、この日本側の説明に基づいているようである[60]

詳細


『日本書紀』では日本の初代天皇の神武天皇は神日本磐余彦尊(かむやまといわれひこのみこと)と言われ、饒速日命は「虚空見つ日本の国」と日本を呼んだ。
新羅本紀』では「670年、倭国が国号を日本と改めた」とされている。「倭」と「日本」の関係について、『日本書紀』によれば、「ヤマト」の勢力が中心に倭を統一した古代の日本では、漢字の流入と共に「倭」を借字として「ヤマト」と読むようになり、やがて、その「ヤマト」に当てる漢字を「倭」から「日本」に変更し、当初はこれを「ヤマト」と読んだとする[22]
「日本」という国号の表記が定着した時期は、7世紀後半から8世紀初頭までの間と考えられる。この頃の東アジアは、618年に成立したが勢力を拡大し、周辺諸国に強い影響を及ぼしていた。斉明天皇658年臣の阿倍比羅夫に、外国である粛慎(樺太)征伐を命じている。663年の白村江の戦いでの倭国軍の敗戦により、唐は使者を倭国に遣わし、唐と倭国の戦後処理を行っていく過程で、倭国側には唐との対等関係を目指した律令国家に変革していく必要性が生じた。これらの情勢を契機として、668年には天智天皇が日本で最初の律令である近江朝廷之令(近江令)を制定した。そして672年壬申の乱を経て強い権力を握った天武天皇は、天皇を中心とする体制の構築を更に進め、689年飛鳥浄御原令から701年大宝元年)の大宝律令の制定へと至る過程において国号の表記としての「日本」は誕生したと考えられる。
具体的な成立の時点は、史料によって特定されていない。ただし、それを推定する見解は2説に絞られる。
(1) 第一説は、天武天皇の治世(672年 - 686年)に成立したとする説である[61]。これは、この治世に「天皇」の号および表記が成立したと同時期に「日本」という表記も成立したとする見解である。例えば吉田孝は、689年の飛鳥浄御原令で「天皇」表記と「日本」表記と両方が定められたと推測する[62][63]
(2) もう一説は、701年(大宝元年)の大宝律令の成立の前後に「日本」表記が成立したとする説である。例えば神野志隆光は、大宝令公式令詔書式で「日本」表記が定められたとしている[64]。但し『日本書紀』の大化元年(645年)七月条には、高句麗・百済からの使者への詔には「明神御宇日本天皇」とあるが、今日これは、後に定められた大宝律令公式令を元に、『日本書紀』(720年(養老4年)成立)の編者が潤色を加えたものと考えられている[65]
8世紀前半の唐で成立した『唐暦』には、702年(大宝2年)に「日本国」からの遣使(遣唐使)があったと記されている[66]。後代に成立した『旧唐書』[67][68]、『新唐書』[69]にも、この時の遣唐使によって「日本」という新国号が唐(武則天、大周)へ伝えられたとの記述がある。両書とも「日の出の地に近いことが国号の由来である」とする。国号の変更理由については「雅でない倭国の名を嫌ったからだ」という日本国側からの説明を記載するものの、倭国と日本国との関係については、単なる国号の変更ではない可能性について言及している。すなわち、『旧唐書』は「小国だった日本が倭国を併合した」とし、『新唐書』は、日本の使者は「倭が国号を日本に変えたとか、倭が日本を併合し国号を奪った」と言っているが疑わしいとしており[70]、同書でも、日本は、隋の開皇末(600年頃)に初めて中国と通じた国であり、古くから交流のあった倭国とは別と捉えられている。また、日本の王の姓は阿毎氏であること、筑紫城にいた神武が大和を征服し天皇となったことなどが記載されている。いずれにせよ、これらの記述により、702年に初めて「日本」国号が唐によって承認されたことが確認できる。
これまでに発見されている「日本」国号が記された最古の実物史料は、開元22年(734年、日本:天平6年)銘の井真成墓誌である[71]。但し2011年7月、祢軍という名の百済人武将の墓誌に「日本」の文字が見つかったという論文が中国で発表された。墓誌は678年制作と考えられており、もしこれが事実であるならば日本という国号の成立は従来説から、さらに遡ることになる[72]
旧唐書』・『新唐書』等を理由として「日本」国号は、日本列島を東方に見るという中国大陸からの視点に立った呼称であるとする説がある[73]平安時代初期に成立した『弘仁私記』序にて、日本国が中国に対して「日の本」、つまり東方に所在することが日本の由来であると説明され、平安時代に数度に渡って行われた『日本書紀』の講読の様子を記す『日本書紀私記』諸本においても中国の視点により名付けられたとする説が採られている[74]
隋書』東夷伝に、倭王が皇帝への国書に「日出ずる処の天子」と自称したとあり、このときの「日出ずる処」という語句が「日本」国号の淵源となったとする主張もある。しかし、「日出ずる処」について、仏典『大智度論』に東方の別表現である旨の記述があるため、現在、単に文飾に過ぎないとする指摘もある[75]
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22. (漢文) 『日本書紀』巻第一 神代上. - ウィキソース. "日本、此云耶麻騰。下皆效此(日本、ここにはヤマトと云ふ。下は皆これに傚(なら)へ)" 
57. 下中直人編 『世界大百科事典 21』 平凡社、387頁。
58. 前掲 『世界大百科事典』 387頁。
59. 前掲 『世界大百科事典』 387-388頁。
60. 前掲 『世界大百科事典』 388頁。
61. 熊谷公男 『大王から天皇へ 日本の歴史03』(講談社、2001年)、吉田孝 『日本誕生』(岩波新書、1997年)など
62. 吉田孝 『日本の誕生』(岩波新書、1997年)
63. 天武天皇は、飛鳥浄御原令が成立する以前の686年に没している。
64. 神野志隆光『「日本」とは何か』(講談社現代新書、2005年)
65. 古田東朔「国号」節(「日本」項、『国史大辞典』第11巻、吉川弘文館、1990年)
66. 続日本紀慶雲元年(704年)七月条に、粟田真人を執節使とする遣唐使が唐(大周)から帰国したとの記述がある:“秋七月甲申朔、正四位下粟田朝臣眞人自唐國至。初至唐時、有人來問曰:「何處使人?」答曰:「日本國使。」…問答畧了、唐人謂我使曰:「亟聞、海東有大倭國、謂之君子國、人民豐樂、禮義敦行。今看使人、儀容大淨、豈不信乎?」語畢而去。”
67. (漢文) 『舊唐書』卷一百九十九上 列傳第一百四十九上 東夷. - ウィキソース. "倭國者、古倭奴國也。…日本國者、倭國之別種也。以其國在日邊、故以日本爲名。或曰:倭國自惡其名不雅、改爲日本。或云:日本舊小國、併倭國之地。(倭国は、古の倭奴国なり。…日本国は、倭国の別種なり。其の国、以って日辺に在り。故に日本を以って名と為す。或は曰う:倭国自ら其の名の雅ならざるを悪(にく)み、改めて日本と為すと。或は云う:日本は旧(もと)小国にして、倭国の地を併せたりと。)" 
68. 『旧唐書』には倭・日本伝があり、「日辺にあるゆえに日本をもって名となす」(日本国者、倭国之別種也、以其国在日辺、故以日本為名)とあり、これを「ニッペン」「ニッポン」の語源と推理する史家もいる。『律令時代の日本』今井欣一(PDF-P.194)
69. (漢文) 『新唐書』卷二百二十 列傳第一百四十五 東夷. - ウィキソース. "日本、古倭奴也。…後稍習夏音、惡倭名、更號日本。使者自言、國近日所出、以爲名。或云日本乃小國、為倭所?、故冒其號。(日本は、古の倭奴なり。…後に稍(やや)夏音を習い、倭の名を悪(にく)み、更(あらた)めて日本と号す。使者自ら言う、国日出ずる所に近き、以って名と為すと。或は云う、日本は乃ち小国、倭の并す所と為す。故に其の号を冒すと。)" 
70. これらの記述は、天武天皇が大友皇子の近江朝廷を滅亡させた壬申の乱を示すとする説がある。
71. 井真成墓誌は、中華人民共和国陝西省西安市内工事現場で発見されたと、2004年10月に発表された。
72. 「日本」呼称、最古の例か 678年の墓誌?中国で発見 - 文化 - 朝日新聞 2011年10月22日
73. 網野善彦『「日本」とは何か』(講談社、2000年)、神野志前掲書など。
74. 神野志隆光は、日本の称が中国の世界観の中から生まれた可能性を指摘した上で、故に日本の国号が唐に受け容れられたのではないかと考察している。
75. 東野治之『遣唐使と正倉院』(岩波書店、1992年)や神野志前掲書など。

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出典:Wikipedia
2017/09/19 11:31
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