日朝修好条規
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2.背景
2.1.朝鮮における攘夷高揚
この条約が締結された当時、朝鮮は冊封国であったが、鎖国政策を国是としていたため、国際交流は非常に限られていた。しかし、そのような朝鮮も1860年代以降に欧米列強から近代的な国交・通商関係を求められるようになる。

当時、朝鮮の政権を担っていたのは高宗の実父興宣大院君である。大院君は鎖国を維持する姿勢を貫いた。これは中国における西欧側の行為を知ったこともあるが、朱子学以外を認めない衛正斥邪という思想政策を推進していた大院君が西欧諸国を夷狄視していたことも理由の一つである。大院君は「西洋蛮人の侵犯に戦わない事は和議をする事であり、和議を主張することは売国行為である」と書かれた斥和碑を朝鮮各地に建て、攘夷の機運を高めた。また、朝鮮では、文禄・慶長の役で中国が朝鮮を救援したため、戦時には中国からの救援を期待していた。小島毅は「中国は東アジア全体にとっての親分だというのが朝鮮の認識ですから、親分である中国に自分を守ってもらおうとするわけですね」と述べている[2]

しかしながら、1866年のフランス人宣教師を含むキリスト教徒の虐殺事件(丙寅迫害)は報復としてフランス軍が軍艦7隻総兵力1000人で朝鮮の江華島を攻撃・占領する丙寅洋擾となり、同年のジェネラル・シャーマン号を焼き討ち事件アメリカ合衆国も報復として軍艦5隻総兵力1200人艦砲85門で朝鮮の江華島に攻撃・占領を行われる(辛未洋擾)という事態を招いた。

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出典:Wikipedia
2019/09/05 11:30
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