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南満州鉄道
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3.歴史
3.5.消滅とその後
1945年昭和20年)の日本の降伏の直前に満洲に侵攻したソ連軍に接収された。その施設は同年8月27日に発表された中ソ友好同盟条約により、中華民国政府とソビエト連邦政府の合弁による中国長春鉄路に移管された。その後、国共内戦による中華人民共和国成立を挟んで、1955年に中華人民共和国政府への路線引き渡しが完了した。

一方、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)によりポツダム宣言受諾にともなう閉鎖機関令が公布され、満鉄は1945年9月30日に遡って閉鎖されたものとされた。ただし敗戦後も、満鉄東京支社の財産などが残っていたため、清算は1957年(昭和32年)までかかった。

満鉄は消滅したものの、現地の鉄道輸送の人員や技術者は不足しており、総裁だった山崎元幹ら旧満鉄社員の多くはソ連や中華民国の依頼によって現地に留められ、鉄道運行などの業務に従事(留用)させられた。留用は1949年に建国した中華人民共和国でも続き、現地から他の地域の鉄道建設へと駆り出され[5]、その成果として天水 - 蘭州間の天蘭線開通が挙げられる(1953年に帰国後「天水会」を組織)[6][7]。また、大村卓一は満鉄総裁を務めた罪で、中国共産党軍に逮捕され、獄死した。

満鉄が満洲に残した各種インフラは、日本が撤退し、1955年の中国返還後、1980年代に改革・開放政策が始まるまで、鞍山製鉄所や付近で発見された大慶油田と共に、国内が不安定であった中華人民共和国の経済を長く支えた。

長春(旧・新京)や大連瀋陽(旧称・奉天)といった主要都市では現在でも日本統治時代の建築物を多数目にすることが出来る。満鉄関連の建物は多くが修復されながら現在も使われており、満鉄大連本社は現在でも大連鉄道有限責任公司の事務所としてその建物を使用しているほか、大連などにある旧ヤマトホテルは現在も大連賓館や遼寧賓館などとして営業を続けている。

満鉄各線で運行されていた車両の一部は、ジハ1型など現在も現地で稼働するものもあるが、老朽化などの理由で徐々に廃車が進んでおり、一部は静態保存されている。

かつて満鉄に勤務した田中季雄は太平洋戦争後に次のように語っている[8]

戦後になって日本の大陸への進出を侵略としてとかく悪く言われるが、清国の衰退で国家の形をしていなかった現在の中国東北地域に新しい国をつくった満州国の場合は、五族(支那満州蒙古日本朝鮮)の民族協和による王道楽土の建設を目指し、満鉄はその新国家の動脈として産業発展と民生向上に大きく貢献していたと思う。満鉄が同地域に残した有形無形のものは極めて大きく、戦後の新中国の発展にも大きく役に立っているはずだ。 ? 田中季雄、「第17章 満鉄の興亡」『日本の鉄道史セミナー』(p131)
2017年4月6日、中国社会科学院は長春に満鉄研究の中心地として「満鉄研究センター」を設立した[9]

満鉄会[編集]


1946年(昭和21年)、元社員の就職斡旋や未帰還者の早期帰国などを目的として、「満鉄会」が設立された[10]1954年(昭和29年)11月25日には、財団法人「満鉄会」となった。旧満鉄社員及び満洲関係引揚者の援護厚生などを行った。

会員は多い時で約15,000人いたが、その後は会員の高齢化に伴って減少した。2012年(平成24年)10月19日に最後の大会を開催し、翌2013年(平成25年)3月末をもって解散した。2013年4月から3年間は情報発信のみをおこなう「満鉄会情報センター」として運営された[10]が、これも2016年(平成28年)3月末で幕を閉じた[11]

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(3.4.満鉄改組)
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(4.1.標準軌への改軌)
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出典:Wikipedia
2020/02/26 12:00
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