藤子・F・不二雄
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4.長年にわたるスランプ
藤本は、当初こそ『オバケのQ太郎』(1964年)、『パーマン』(1966年)等のヒット作に恵まれたが、それ以降の『21エモン』(1968年)、『ウメ星デンカ』(1968年)、『モジャ公』(1969年)といった作品はあまりヒットせず、いずれも短命に終わった。藤子スタジオも、えびはら武司などの一部のアシスタントを除いて、『怪物くん』(1965年)、『黒ィせぇるすまん』(1969年)、『魔太郎がくる!!』(1972年)といったヒット作に当時恵まれていた安孫子の方を中心に手伝うようになった。藤本はスランプに陥り、「週刊少年サンデー」の編集長に「サンデー作家陣から外してほしい。」という手紙を送りつけるようになる。

その後、藤本に青年誌である『ビッグコミック』から執筆依頼が来た。藤本は自分の児童向け作調に合っていないという判断で最初は断っていたが、編集者の熱心な要望により渋々引き受けることにした。そこで描かれたのが短編の『ミノタウロスの皿』である。この作品は編集部でも好評であり、「自分にもこんなものが書けるのかという、新しいオモチャを手に入れたような喜びがありました。」と語っている。

そして間もなく、学年誌にて『ドラえもん』(1969年)を執筆し始めるが、人気は今ひとつであった。藤本は不満げに「もう少し人気が出てもいいのに…。」とぼやいていた[32]。4年後、アニメ化されるも、すぐに終了。それに伴い、編集部やスタジオ側も、漫画のドラえもんの連載終了の雰囲気であった。しかし、その翌年、単行本が全6巻発売され、話題となり、続刊。1978年には1500万部をも売り上げるようになり、日本のみならず海外でも話題となるようになる。そして1979年再びアニメ化大幅なリニューアルが行われながらも現在まで続く長寿アニメとなる。翌1980年には劇場映画第1作『のび太の恐竜』が公開され、配給収入15億5000万円[33]、観客動員数累計1億人を突破する大ヒットとなる。これらの成功により人気は決定的なものとなり、『ドラえもん』は藤本のみならず、日本を代表する国民的作品となった。

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出典:Wikipedia
2019/12/31 12:30
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