男木島
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2.歴史
2.1.近代まで
島内には小規模の積石塚であるコミヤマ古墳など、6基の古墳がある[18]

男木島・女木島・直島を併せて「直島3ヶ島」というが、戦国期から1671年寛文11年)にかけて、この地域は土豪である高原氏の所領であった[18][27]軍記物である『南海治乱記』には、高原氏の祖は北条時頼の時代に備讃瀬戸の海賊を平定し、直島諸島および塩飽諸島を下賜された香西家資であると記されている[28]天正10年(1582年)の備中高松城の戦いでは高原次利らが案内者として羽柴秀吉を助け、その功績から直島3ヶ島の支配を安堵された[28][29]。次利の子である次勝は関ヶ原の戦いで東軍に与し、その後は旗本として家名を保った[29]。高原氏5代当主である高原仲昌には継嗣がいなかったことから、丹波国山家藩より谷衛政の八男である熊之助を養子に迎えて6代高原仲衡とした。しかし、仲昌と仲衡は反りが合わず、仲昌は仲衡が「父母に不孝である」ことを大老酒井忠清に訴えた[29]。しかしそれが裏目に出て1671年(寛文11年)12月に高原氏は改易、翌1672年(寛文12年)より直島3ヶ島は天領となった[29]

1862年文久2年)、高松藩は幕府の内命を受けて男木島、女木島に台場の築造を命じた。当初、「天領である」という理由から両島は命令に従わず、高松藩は対抗措置として、両島の漁民が高松城魚市場で海産物を売ることを禁じた。獲った魚の大半を高松城下で販売していた男木島の漁民は生計に困り、当時の庄屋であった上川弥三右衛門の宅に押しかけて陳情を行い、弥三右衛門は女木島の庄屋である西尾寛右衛門とともに直島の庄屋三宅家を頼り、台場築造を受け入れることとした[18]

石高は、『直島之内男木島古帳面高辻写』に見える1679年延宝7年)の備中国足守藩による検地では83石余、うち小物成は山手銀[31]8匁余、真綿300代銀33匁、苫50枚代銀20匁、小麦藁菰100枚銀10匁、いかなご網運上銀260匁、鯛網2帖運上銀700目となっている[18]。『天保郷帳』には89石余、『旧高旧領取調帳』には88石余、とある[18]幕末頃に描かれた『直島旧跡順覧図絵』には島まわり1里8町15間、山畑は若干で漁師が多い、と記述されている[18]

1882年明治15年)には男木島漁夫総代会が結成された[18]1885年(明治18年)には中ノ瀬、城ノ瀬、藻先ノ瀬と呼ばれる漁場を巡って直島漁民と男木島漁民が乱闘する事件があり、翌1886年(明治19年)には大阪控訴院によりこれらの漁場が男木島の漁場であることを認める判決が出された[18]1895年(明治28年)には島北端部に男木島灯台が設立された[32]。当時の灯台の光源は石油であったから昼夜を通しての管理が必要であり、灯台完成後は、職員2名が家族とともにこの地に住み、孤立した厳しい環境下で灯台の管理を行った[32][33]

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(2.2.現代)
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出典:Wikipedia
2019/05/27 21:31
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