棚橋小虎
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2.生涯
2.8.松本時代(終戦から死去まで)

国政への進出[編集]


1945年8月15日の敗戦を受けて、棚橋は9月23日に旧社会大衆党員懇談会を開催して選挙態勢の発足を図った[77]11月2日日本社会党が結党し、その結成大会において棚橋は中央執行委員に選出される。更に12月5日には、社会党松本支部を結成して支部長に、12月9日には社会党長野県連合会結成大会で執行委員長にそれぞれ就任した。12月22日には長野県第4区の正式候補者に決定したが[78]1947年に長野県は特例で大選挙区連記制が採られることになった関係で、新たに清水敬一郎と菅沢津郷が棚橋と共に選挙を戦うことになった[79]3月11日、棚橋は総選挙への立候補届出を行い、4月10日の投票の結果得票第7位の62,309票で衆議院議員に初当選を果たした[80]。しかし、翌1947年3月31日に議会は解散し(「新憲法解散」)、更に4月6日に東亜連盟関与のために公職追放が確実となり、議員を失職した[63]。この間、棚橋は初の民選知事を選出する長野県知事選挙の候補者銓衡に奔走し、本藤恒松(社会党衆議院議員)ほか17名と「鷹の湯会議」を行って林虎雄を知事選の候補者に決定した[81]。林は4月7日の選挙で当選し、以後三選することになった。1948年5月22日、公職追放が解除されて12月23日の「馴れ合い解散」が起こると、早速立候補した。しかし、1949年1月23日の投票の結果落選し、これを受けて4月14日には社会党大会代議員を除かれた[63]12月18日、棚橋は県連合大会で参議院候補に推されて1950年5月3日第2回参議院議員通常選挙への立候補(長野選挙区)を表明し、6月4日の投票の結果205,305票を獲得してトップ当選を果たした[82]7月11日、棚橋は参議院社会党議員副会長に就任した。

1951年10月に開催された社会党大会が開催されると、講和条約をめぐって左右に分裂し、棚橋は社会党右派に所属した。1952年4月15日、社会党右派県連結成大会が開催され、翌1953年2月22日には県連委員長に就任した。更に1954年1月の党大会では、再度中央執行委員に就任して右派の重鎮としてその姿を示した[83]。その後、左右は統一されたが棚橋は県連大会委員長を留任され、1956年7月8日第4回参議院議員通常選挙の結果、340,871票で再度トップ当選を果たした[84]1959年9月、社会党が西尾末広問責問題で紛糾すると、10月25日に衆議院議員21名・棚橋ほか参議院議員11名と共に社会党を脱党して「社会クラブ」を、12月29日にこれを改称して「民社クラブ」、翌1960年1月24日に更に改称して民主社会党を結成した。しかし、1961年5月に心臓に異常を感じ始めたことから引退を考えはじめ、民主社会党県連選対委員会から参院選再出馬の要請があったもののこれを辞退した[85]1962年5月7日、第40国会閉会に際して民主社会党両院議員総会で引退の演説を行い、国政から退いた。

国政引退後[編集]


議員引退後の1965年に叙勲を辞退し、翌1966年8月から自伝の執筆に取りかかった[85]1968年8月4日に『自伝(一)』をタイプ印刷で刊行し、1969年3月10日に尚志社の記念碑「尚志社の跡」のため揮毫を行った(4月10日に除幕式が行われた。)。10月1日、再度叙勲を辞退した後に翌1970年に入ると心臓発作で入退院し、その後各地を旅行した[86]1973年2月20日心筋梗塞のため自宅で死去した[87]

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出典:Wikipedia
2019/11/28 14:01
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