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陳朝
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1.歴史
1.1.王朝成立まで
皇族である陳氏の祖先は福建、もしくは桂林からの移住民であり、現在のナムディン省タイビン省一帯を根拠地とし、一族は漁業と水運業で生計を立てていた[2]。また、漁業と水運業の傍らで海賊業を行っていた伝承も存在する[3]

李朝支配下の北ベトナムでは12世紀末より政権の腐敗が甚だしく、天災による飢饉によって民衆は窮乏し、治安は悪化していた[4]。乂安(ゲアン)、清化(タインホア)、寧平(ニンビン)では民衆の反乱が起こり、各地の豪族の中にも朝廷に反逆する者が現れる[5]1208年に乂安の反乱を鎮圧するために招集した軍隊が昇龍で反乱ベトナム語版を起こすと、皇帝・高宗ら李朝の皇族は昇龍から放逐され[3]、反乱の鎮圧に陳氏の力を借りることになる。1209年、陳氏の長であった陳李中国語版は高宗たちを保護するが翌年盗賊に討たれ、代わって次男の陳嗣慶(チャン・トゥ・カイン)[6][7]を中心とする陳氏は高宗を擁して昇龍に入城し[3]、以降朝廷で陳氏の勢力が台頭してゆくこととなる。

乱の鎮圧中に陳李によって擁立された皇子・李が即位する(恵宗)と、陳嗣慶の妹・仲女中国語版を恵宗の后に、恵宗の母である譚氏中国語版を太后として、陳氏と譚太后の共同統治が行われる[6]。やがて陳嗣慶と譚太后の間に対立が起きるが、陳嗣慶は恵宗の支持を得て、譚太后一派との政争に勝利し、宮廷内での地位を確立した[6]。内乱の鎮圧にあたって陳嗣慶は兄[6][7]の陳承中国語版(チャン・トゥア)、従弟の陳守度(チャン・トゥ・ド)ら一族と連携し[8]、陳嗣慶の死後は殿前指揮使の高位に就いていた陳守度が陳氏の中心人物となった。

1224年に陳守度は恵宗を退位させて7歳の次女である李仏金(リ・パット・キム)を皇帝に擁立し(昭皇)、恵宗を寺院に隠棲させた[9]。陳守度は8歳の従甥・陳(チャン・カイン)を昭皇の遊び相手とした後、陳と昭皇を結婚させる[9]1225年[注 2]に昭皇から陳への譲位が行われ、陳を皇帝(太宗)、陳の父である陳承を上皇とする陳朝が成立する[10]。陳朝成立後に陳守度は李を隠棲先の寺で自害させ、李朝再興の芽を摘むために李の葬儀に集まった李氏の一族を殺害する[1][9]とともに、李氏の女子たちを紅河デルタ周辺の部族勢力に嫁がせ、彼らとの修好を図った[11]

太宗の治世初期では陳守度が皇帝を輔弼して王朝の基礎を固め、李朝末期より発生していた反乱も鎮圧された[1]1237年に太宗は陳守度の進言によって、子のなかった昭聖皇后(仏金)に代えて、兄の陳柳の妻である李氏?中国語版を妊娠中にもかかわらず奪って皇后とした[12][13]。妻を奪われた陳柳は反乱を起こし、一時は太宗が安子山に隠遁する事態に至る。結局騒動は陳守度によって収拾され、陳守度との抗争に敗れた陳柳は安生王として紅河デルタの東端(現在のクアンニン省)に封じられた。太宗の親政が始まった1240年代より官・軍・法の各種制度の制定が実施され[12]1242年に国内を12の路に分けての行政区画と戸籍の整備が行われた[14]1248年には治水に携わる新たな官職として河堤使が設置され、「水源から海に至る」と言われた、総延長200キロメートル[15]にも及ぶ大堤防「鼎耳防」の建設令が出された[16]

[6]次ページ
(1.2.モンゴル軍の第一次侵攻)
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出典:Wikipedia
2019/12/21 11:00
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2020/02/23 更新
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