中国
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3.「中国」の意味の変遷
3.2.近代的用法
清代後半になると、近代化を果たした欧米諸国の圧倒的国力が中国周辺にも波及し、中国は諸外国と対等な国際社会の一員として自己を再定義する必要に迫られた。「中国」という用語の近代的な主権国家の概念での使用は、1842年阿片戦争の敗北で清朝がイギリスと結んだ南京条約で、漢文の「中国」が使われた近代的な国際条約が最初であると知られている。

1689年に調印されたネルチンスク条約では、清朝の外交使臣が自らの身分を称する時に「中国」という用語を満州語で使った。ここで言う中国とは、満洲人の故郷である満洲と旧明領を皇帝直轄地として統治したことから、この領域を「真ん中の国」という意味として中国(満洲語:ドゥリンバイ・グルン、dulimbai gurun)と呼んだものである。

清朝政府が主権国家体制と国籍条例の重要性を認識し、国籍法に国名は「中国」を定めている[19]20世紀初期、梁啓超は『中国史叙論』において、自国の主権国家の国名をどうするか悩み、「中華」「支那」「中国」の中から、「中国」を選んだ[20]

「中国」や「中国人」の範囲をどのように設定するかについては20世紀に入っても議論が続いた。たとえば共和革命のイデオローグ章炳麟は「中華民国解」[21]で中国の範囲を「先漢の郡県が設置された領域」、中国人を「黄帝の子孫」と定義、朝鮮(漢代に楽浪郡帯方郡が置かれた)やベトナムを「中華民国が絶対回復すべき領域」、ビルマを「ややこれに次ぐ領域」とする一方、モンゴル(蒙古)やチベット(西蔵)、東トルキスタン(回部)は、漢代に郡県は置かれず、「三荒服の地」であったことから、中華民国に参加するのも自立するのも、彼ら自身に任せるべき、としている。

辛亥革命では、「支那共和国」と呼称されていたが[22]主流ではなれなかった、共和勢力による政権獲得が現実のものとなっていくのに伴い、支那の独立という理想論は影を潜め、清朝1912年の段階まで連合していた「支那・満洲モンゴルチベット東トルキスタン」の範囲をそのまま枠組みとする「中国」で、近代的な国民国家の形成が目指されることとなったが、実際には漢民族との連携を重視し始めた清朝に対する反発と諸外国の影響を受けて支那地域以外では自立の動きがみられ、これらの地域の再統合は中華人民共和国の成立後に持ち越される事になる。

「中国」「中華」は中華民国および中華人民共和国において、それぞれの国号となった。「中国」「中華」という用語が持っていた「漢民族のアイデンティティ」という要素は、「多民族の仲直りと統一」という要素として再構成され、多民族の構成員が主体となって建設した「中国文化の優越性」だけが共通分母として落ち着くようになった。そしてその持ち主という意味の「華人」「華僑」という呼称も生まれた。

今日の中国では、漢民族以外の数多くの少数民族が居住しており、その数は中華人民共和国政府が公式に認定しているものだけでも55を数える。なお、中華人民共和国憲法では漢民族を含む全ての民族を「中華民族」と規定している。

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出典:Wikipedia
2019/06/08 07:00
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