中華人民共和国
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3.歴史
3.1.中華民国からの連続
古代から続く中国の歴史は、政治経済の両面から中華人民共和国のあり方を規定している。このことは、中華人民共和国憲法前文でも言及されている。

中国は、王朝が1840年勃発のアヘン戦争で敗北(1842年南京条約を締結)したのを機に、従来の華夷秩序に基づく世界が崩壊し、西洋列強が中心となる近代世界の一部に組み込まれた。相次ぐ不平等条約で次第に列強の半植民地的な状況になった中国では、洋務運動等の近代化を目指す取り組みの末に辛亥革命が発生して1912年中華民国が創立された。

中華民国創立後、北洋軍閥が実権を握る北京政府へ反発した孫文第二革命護国戦争護法運動を起こすが、いずれも失敗に終わった。その後、軍閥時代五四運動を契機として中国の青年達に共産主義思想への共感が拡大すると、1919年10月に中国国民党を結党した孫文はソ連に接近し、一方で1921年7月に陳独秀毛沢東らは中国共産党を結党した。両者はコミンテルンの指導によって第一次国共合作を行い、北京政変を機に平和的な全国統治の流れが生まれたが、孫文の死後によってとん挫した。

孫文の死後、国共両党が連携して北伐を開始したが、1927年4月に南京国民政府を樹立した蒋介石上海クーデターを起こすと両党の連携は解消され、中国共産党は非合法な存在となった。合作解消後、中国共産党は南昌蜂起を皮切りに武装蜂起を展開し、一時期は中華ソビエト共和国を樹立したが、国民革命軍の掃討戦に敗れて長征を実施し、1936年以降は延安を拠点とした。1936年西安事件を機に南京国民政府の攻撃が衰え、1937年日中戦争が勃発すると、中国共産党は国民政府と第二次国共合作を行い、紅軍の一部が八路軍新四軍として国民革命軍に編入された。

日中戦争終結後、双十協定が結ばれたものの、1946年には再び国共が内戦状態となった。内戦中に南京国民政府がアメリカからの援助打ち切りと失政で弱体化すると、中国人民解放軍中華民国軍の主戦力を三大戦役で殲滅することに成功し、1949年4月の首都・南京占領で中国共産党は南京国民政府に対する勝利を決定的なものとした。その後、中国共産党は中華民国に代わる「新しい中国国家」樹立の為の準備を進め、同年9月に初の中国人民政治協商会議を開いて「新中国」樹立に係る諸事項を決定し、同年10月1日に中華人民共和国開国大典を開催して毛沢東が「新中国」たる中華人民共和国の樹立を宣言した。

中華人民共和国樹立の時点で、蒋介石率いる中華民国政府は未だ中国大陸華南三省と西南部三省の多数の地域を統治していた。だが、中国人民解放軍の攻勢によって同年12月に国民党進駐中であった台湾に逃れ、人民解放軍は翌1950年5月までに福建省浙江省[28]の一部島嶼を除く中国大陸と海南島をした。ただし、台湾に政府機能を移転した中華民国政府は1950年以降も台湾国民政府として存続し、台湾とその他島嶼からなる地域(台湾地区)は2018年現在に至るまで中華民国政府の実効支配下にある。

経済面において、1840年1949年(清・中華民国時代)の中国では外資が中国の近代化を推進した。19世紀末には香港上海銀行イギリス)や露清銀行ロシア)、インドシナ銀行フランス)といった欧州資本が進出してきたが、20世紀に入ると門戸開放政策によってアメリカ資本も参入してきた。このアメリカ資本とは、例えば第一次世界大戦中に来中してきたJPモルガンのフランク・ヴァンダーリップ(Frank A. Vanderlip)であり、または世界大戦直後に中国人向けの保険を初めて販売したAAU(American Asiatic Underwriters、後のAIU保険)である。一方の中国側も、蒋介石政権が対米関係を重視して四大家族アメリカ政府へのロビー活動チャイナ・ロビー)を働きかけ、米中関係は政治・経済面でより親密なものとなっていった。このようなアメリカとの経済的な結びつきは、米中国交樹立(1979年[29]後の改革開放政策で再び強まり、今日の中華人民共和国がグローバル化する背景となった。

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出典:Wikipedia
2018/11/10 17:30
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