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大般涅槃経
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4.大乗の『涅槃経』
4.5.『法華経』との関係
『涅槃経』は他の経典との関連性を随所に説いているが、『涅槃経』は特に『法華経』と密接な関係があり大乗の思想発展や経典成立の過程を見る上で注目に値する。たとえば如来常住は、すでに『金光明経』の如来寿量品で「仏は般涅槃せず、正法また滅せず、衆生を利せんが為の故に当に滅尽する事を示現す」とある。また『法華経』の如来寿量品には、釈迦仏釈迦族の王位を捨てて出家し修行して菩提樹の下で初めて悟りを得たのではなく、過去の無量無辺の時空間においてすでに成仏していたことを打ちあけ、「しかも実には滅度せず、常に此処に住して法を説く」とある。これは如来の常住思想を端的に表したものである。とはいえ『金光明経』はもとより『法華経』では未来における釈迦仏の常住については『涅槃経』ほど詳細に述べられていない。これに対し『涅槃経』では、『金光明経』や『法華経』で説かれた未来における釈迦仏の常住説をさらに発展させ、詳細に述べている。したがって『法華経』などの経名が『涅槃経』文中にあることから、それよりも後世の創作であると考えられるが、それら既成経典をさらに敷衍し発展させたことが理解できる。

また『涅槃経』では、この常住思想を発展昇華し、釈迦仏滅後の未来世での仏や法、またそれを遵守する僧団は不壊であり永遠のものであるという思想をさらに展開して随所に説いている。いわば『涅槃経』は釈迦仏滅後の未来の救いを大きな柱として最後に編纂されたものと思われる。またこれは大乗仏教の思想を発展させたものであり、如来の常住思想は、方等経典に始まり『法華経』でさらに発展させたものを、『涅槃経』ではまたさらにこれを最終形として編纂されたことがわかる。

一乗思想についても、同じく大乗仏教の思想を発展させたものである。一乗とは一仏乗のことで、すべての衆生がひとしく仏如来となれる唯一の教法を指す。これは現在、一般的に『法華経』がその教えとされている。しかし『涅槃経』は『法華経』の一乗思想も受け継ぎ、さらに弁証法的、発展的な理論展開がなされている。

たとえば『法華経』と『涅槃経』を比べてみるに、まず『法華経』は、『華厳経』・『阿含経』・『方等経』・『般若経』で説いた三乗(声聞・縁覚・菩薩)の方便教を会して一乗の教えに帰せしめる会三帰一を目標として説いた。しかしその三乗の差別を超えてどのように一乗に帰せしめることが可能なのか、その根拠や教説の矛盾が『法華経』ではまったく説明されていない。これは『仏教布教体系』などをはじめ、仏教学で多く指摘される点である。

また『法華経』は、不受余経一偈(『法華経』以外の経典の一言一句も受けてはいけない)、正直捨方便(仮に説いたそれまでの方便の教えを捨てよ)などと、法華以前の教えを排斥している記述が多く見受けられる。したがって『法華経』はそれまでの経典との関連性を断ち、また示さず、それら三乗の差別など各教説の矛盾を一挙に解消できる記述がない。これに対し『涅槃経』では、三乗は立場上は差別はあっても仏性はみな平等にあると説いて、『法華経』よりも具体的な会三帰一の根拠を理論的に説いている。したがって一乗の教えは、いわば『法華経』を始発とし『涅槃経』を終点として説いた、といえよう。

天台は法華優位の立場から『涅槃経』を追説追泯(重ねて追って説いただけ)とした。これは一面正しい。しかし『涅槃経』はただ単に華厳から法華までの要旨を重ねて追って説いただけでなく、涅槃原理というさらに一段高い観点から四諦や空などを新しい解釈を加えて再説している。これは『涅槃経』ならではの大きな特徴であり、この点では単純に重ねて追って説いたとはいえない。また『涅槃経』は『法華経』では成し得なかった既存の教説の矛盾解消を目指していることが見受けられる。『涅槃経』では『法華経』や他経典と同様、自経の優位を示す記述は随所にあるものの、先述の通り『法華経』が不受余経一偈、正直捨方便などと排他的記述が多いのに対し、『涅槃経』ではそのような記述はほとんど無い。それどころか、最終的には『法華経』も含めすべての教説が最終的に『涅槃経』に帰一すると円満融和を説いている。これらから『涅槃経』は、大乗仏教として究極の目標を示そうとした作者たちの高い理念や努力がうかがえる。

また、長らく釈尊に違背し五逆罪を犯したとされる提婆達多は、『法華経』において未来に成仏し天王如来となると説かれている。これは仏教一般では「悪人の成仏」とみなすが、日蓮はさらにこれを「一闡提の成仏」と解釈する。しかし涅槃経では提婆達多は一闡提ではないと明言している。提婆達多に関しては、この二つの経文以外に、多くの経の中で悪人とされており、『涅槃経』と『法華経』の記述のみで、全貌を知ることは出来ないということはある。

なお、『法華経』では提婆達多は逆罪を犯した大悪人だったという直接的な記述はない。これは釈尊と提婆達多が傍からは窺い知れぬ微妙な関係だったことが背景としてあり、またそれが長らく仏教教団全体において語り継がれてきた結果による記述と思われる。この観点は『涅槃経』においても同様に引継がれ、釈尊が提婆達多を罵辱したこともなければ彼が地獄に堕したこともなく、提婆達多は一闡提ではない、また声聞縁覚でもなく、ただ諸仏のみが知見できる所であると、さらに具体的にすすんで言及している。またこれは大乗仏教の観点から言うと、自説に違背する輩をいかに救わんとするかという究極の思想発展として注目に値するものである。

秋収冬蔵[編集]


さらに『涅槃経』の菩薩品には

能(よ)く衆生をして仏性を見せしむ、法華の中に八千の声聞の記別を受くることを得て大果実を成ずる如く、秋収め冬蔵(おさ)めて更に所作無きが如し

とある。この『涅槃経』中の経文は、『法華経』を引き合いに出していることから、さまざまな解釈や論議を生むことになった。

天台の法華玄義釈籖巻二に

法華に権を開するは已に大陣を破るが如く、余機彼に至るは残党難からざるが如し。故に法華を大収となし、涅槃を?拾と為す」とあり、日蓮もこの流れを汲み、『報恩抄』において「また法華経に対する時は、是の経の出世は乃至法華の中の八千の声聞に記別を授くることを得て大菓実を成ずるが如く、秋収冬蔵して更に所作無きが如し等と云云。我れと涅槃経は法華経には劣るととける経文なり。かう経文は分明なれども、南北の大智の諸人の迷うて有りし経文なれば、末代の学者能く能く眼をとどむべし

と述べている。つまり、天台及び日蓮の解釈では、一仏乗を開き顕し、釈尊の出世の本懐を顕して、八千の声聞に記別(未来に成仏すると予言し約束する)した『法華経』に対して、『法華経』の後に説いた『涅槃経』は、『法華経』の利益に漏れた者を拾い集めたものであるから、『法華経』を秋に収める大収、『涅槃経』を冬に蔵す?拾とする。したがって、『涅槃経』を?拾遺嘱(くんじゅういぞく)とも呼ぶ。

しかし、この経文には前半部が省略(あるいは抄掠とも)されているという指摘がある。この経文を略さずに書くと

譬(たと)えば闇夜に諸の営作する所が一切、皆(みな)息(や)むも、もし未だ訖(おわ)らざる者は、要(かな)らず日月を待つが如し。大乗を学する者が契経(かいきょう=一切の経典)、一切の禅定を修すといえども、要らず大乗大涅槃日を待ち、如来秘密の教えを聞きて然(しか)して後、及(すなわち=そこで)当に菩提業を造り正法に安住すべし。猶(なお)し天雨の一切諸種を潤益し増長し、果実を成就して悉(ことごと)く飢饉を除き、多く豊楽を受けるが如し。 如来秘蔵無量の法雨も亦復(またまた)是(かく)の如し。悉くよく八種の病を除滅す。是の経の世に出づる、彼の果実の一切を利益し安楽にする所、多きが如し。能(よ)く衆生をして仏性を見せしむ、法華の中に八千の声聞の記別を受くることを得て大果実を成ずる如く、秋収め冬蔵(おさ)めて更に所作無きが如し。一闡提の輩も亦復是の如く、諸の善法に於いて、営作する所無し。

したがって、『涅槃経』の立場では、先の声聞記別の経文の解釈はまったく逆であると考える人もいる。それは、『法華経』はたしかに声聞の記別を説いたが、その前に方便品において、「それまでの教えと違うのなら聞けない」と五千人の増上慢の比丘たちが立ち去って(これを五千起去という)以降、救われていない。それらをもし『涅槃経』に譲ったとするならば、一切衆生の済度を確約する仏教の教え、また最高の教えであると位置付ける法華経に落ち度があることになり不完全な教えとなる、と主張する。またこの『涅槃経』の経文は恣意的に前半部が省略されて多く典拠されており、これを省略せず素直に読めばまったく意味が逆の違ったものになるとする。『涅槃経』では、これはあくまでも『涅槃経』の利益を説いたものであり、「秋収冬蔵」というのは、『法華経』で声聞衆が記別を受けて大果実を得たように、この『涅槃経』の教えを修学すれば、「更に所作なきが如し(あとは何もすることがないのと同じである)」と説いている。したがって『涅槃経』を修学しなければやり残したものがある、というのが、解釈を加えない経文そのものの真の意味である。

また、同じく菩薩品には

爾の時に是の経閻浮提に於て当に広く流布すべし、是の時に当に諸の悪比丘有つて是の経を抄略し分ちて多分と作し能く正法の色香美味を滅すべし、是の諸の悪人復是くの如き経典を読誦すと雖も如来の深密の要義を滅除して世間の荘厳の文飾無義の語を安置す前を抄して後に著け後を抄して前に著け前後を中に著け中を前後に著く当に知るべし是くの如きの諸の悪比丘は是れ魔の伴侶なり

とあるが、秋収冬蔵の経文は、まさに『涅槃経』の経文を都合のいいように解釈するために抄略したものである、と反論している。しかし、これは、先の文を否定したものではなく、他の経文を否定したものと取るのが、正しいであろう。なぜなら、同一の経文内で、一つの品が他の品と反対の事柄を述べることはあり得ないからである。ただし、『涅槃経』には、その疑義もあり、例えば、一闡提の成仏については(認めたり、認めなかったりという記述)、『涅槃経』一貫して、同一ではなく、錯誤が見られることも指摘されている。

さらに、この秋収冬蔵の譬喩説は南本と北本のみにしかない。法顕・六巻本には、

復、次に善男子、譬えば夜闇に閻浮提の人、一切の家業(けごう)は皆悉く休廃(くはい)し、日光出で已(おわ)って、其の諸の人民、家事(けじ)を修めることを得るが如し。是の如く、衆生、諸の契経及び諸の三昧を聞いて、猶夜闇に此の大乗の般泥?経の微密の教えを聞くが如し。猶日出でて諸の正法を見るが如し。彼の田夫(でんぷ)の夏時の雨に遇うが如く、摩訶衍(大乗)経は無量の衆生を皆悉く受決(じゅけつ)して如来性を現ず。八千の声聞は法華経に於いて記別を受けることを得たり。唯、冬氷の一闡提を除く。

とあるように、法顕が翻訳した六巻本には「法華経の中で八千の声聞が記別を得た」との記述はあるものの、曇無讖が翻訳した北本及び、六巻本と北本を校合訂正した南本には「大果実を収めて秋収め冬蔵めて更に所作なきが如し」との文言は見当たらない。したがって、六巻本においてもこの箇所は『涅槃経』の優位性を主張するための記述で、『法華経』での声聞記別は単にそのための引証でしかなかったことが伺えるとの主張は、論点の明確化と、後世の研究が待たれるところである。

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出典:Wikipedia
2019/09/26 06:30
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