太陽にほえろ!
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7.企画など
7.1.太陽にほえろ! 誕生まで
『太陽にほえろ!』の企画は、日本プロレスのクーデターで打ち切りとなった『日本プロレス中継』の代替案として立案された。かねてから編成の核となる看板番組の制作を目指していた岡田プロデューサーは、刑事を主役とした「青春アクションドラマ」の構想を抱いていた。これに、物語に厚みを出すため黒澤明の『野良犬』にも影響を与えたセミ・ドキュメンタリー形式の刑事物の古典映画である『裸の町』をモデルとして、リアルな犯罪捜査を描くことを加えて、当初の企画は立てられた。

それまでの日本の刑事ドラマは『七人の刑事』(TBSテレビ)や『特別機動捜査隊』(NETテレビ(現・テレビ朝日)などが主流の、大人向きで渋いイメージが強かった。他にも『ザ・ガードマン』や『キイハンター』(共にTBSテレビ)などがあったが、前者は民間企業たる警備会社、後者は警察とは言えど派手なアクションを駆使した全く架空の特殊チームで、若年層向けとしては桜木健一主演『刑事くん』(TBSテレビ)ぐらいしかなかった。なお、本作はその『刑事くん』の第1部第12話(1971年11月22日放送)にゲスト出演した萩原健一が新人刑事が主役の企画を各所に持ち込んだ結果、本作のスタッフの目に留まって実現したものとも言われている[33]。それまでの「刑事物」は「事件物」と呼ばれて、親が子供に見せたくないドラマの一つだった。

初期企画書の題名は「明日に燃えろ」で、NYPDで研修を受けたばかりのキャリア・藤堂英介を筆頭に、初めて刑事になった風間健一の活躍を描くドラマとして1972年2月に企画された。撮影の遅れを出さないために出演俳優を増員。撮影隊をA・B二班体制にし、同時に進行させていくシステムを採用。主人公が潜入捜査官では目立った活動もできず、拳銃携帯もできなかったことから、拳銃を携帯できる私服刑事と設定した。

さらに、当時流行していたアメリカの刑事映画(『ブリット』(1968年)、『ダーティハリー』(1971年)など)の要素も取り入れ、刑事のキャラクターを全面に押し出すことを主にし、犯罪者側の描写を控えた。初期段階から新人刑事の成長物語を主軸に描くことは決まっていたが、当初の性格設定は生真面目で規則一辺倒な若者だったので、メインライターの小川英はもっと今風な若者にしようと提案する。

当時の世相として高度成長・公害・蒸発が新聞紙面を賑わし、学生運動で学内は荒れ、内ゲバ(暴行事件)が頻発。街ではアングラヒッピーが流行り、新しい価値観や文化が話題となった。海外ではベトナム戦争が交戦中で、少年誌で『あしたのジョー』が大ヒットしていた時節だった。これらの社会現象や風俗を作品の要素に取り入れた。2月にあさま山荘事件で連合赤軍と機動隊の死闘がテレビ中継され、実際に隊員が殉職するなど、警察がヒーローとして注目される風潮が出てきた。

主人公は、当時、刑事役としては異例の長髪で[34]、ファッショナブルな衣装の「NOWな若者」を主人公とするよう変更した。警察という組織にありながらも、反体制的で自己主張するキャラクターに変更。

10月の開始予定が7月に前倒しされ、急ピッチで製作が進められる。主役はザ・テンプターズのメンバーとして人気を博し、映画『約束』で注目された萩原健一に決定した(ショーケン自身、テンプターズ解散後、俳優への転向を摸索していた時期でもある)。野崎役は藤木悠(『東京バイパス指令』のレギュラー)を考えていたが、藤木が東映製作のドラマと契約書に印鑑を押した一か月後に太陽にほえろ!の打診があり、藤木は生涯に渡って後悔したと言う。その後、何人かの俳優のテストを経て野崎役は下川辰平に決まった。

銀幕のスター・石原裕次郎はテレビという媒体への出演に懐疑的だったが、自身が経営する石原プロモーションの台所事情もあり、1クール契約で出演を承諾。他にも大映倒産後に東宝入りした関根恵子や、東宝所属の竜雷太などのキャストが集められた。

裕次郎に出演が打診された当初、先述の理由などから本人は乗り気でなかったが、まき子夫人が「裕さんと同年代の人は今頃皆、家庭を持ち、父親になっているころだよね。今回の役が息子を待つ父親みたいな役どころっていうのは裕さんにとっていいと思う」と夫に出演を勧めたと言われている[35]。『太陽にほえろ!』のタイトルで制作が決定。当初は主人公・早見淳は皆から「坊や」と呼ばれる予定だったが[36]、ショーケンが猛反発。衣装のイメージから「マカロニ」のニックネームが決まる。

新人刑事の活躍を斬新に描いた番組は当時の小中学生から一般視聴者層に受け入れられ、『水戸黄門』と並んで国民的人気番組と称せられるようになった。

「これからはテレビの時代です!」と、1クールで契約切れになった裕次郎の続投を本人に強く推したのは竜雷太だと伝えられる。実際に、最初の撮影では、16ミリフィルムのカメラを見て、映画俳優だった裕次郎は、「そんな小さいカメラで俺が撮れるのか」と馬鹿にするように言い放ったという。テキサス刑事編で当時の最高視聴率を記録した際、裕次郎がフジテレビ『夜のヒットスタジオ』(フジテレビ)に出演した時に司会の芳村真理から『以前は街中でも裕ちゃん≠ニ呼ばれることが多かったと思いますが、最近ではボス≠ニ呼ばれることが多いんじゃないですか?』と聞かれ『イヤ…テレビの影響って凄いですね。どこへ行ってもボスですから…』と答えている。本作のヒットによりテレビの影響力を知った裕次郎は、石原プロモーションで『大都会』や『西部警察』といったテレビドラマの制作を手がけるようになったという。

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出典:Wikipedia
2019/11/12 08:33
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