足利義満
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4.皇位簒奪の意図はあったか
田中義成今谷明らは義満が皇位簒奪する意図を持っていたのではないかとする説を唱えている。

義満は早くから花押武家用と公家用に使い分けたり、2番目の妻である康子を後小松天皇の准母とし、女院号の宣下を受けさせたほか、公家衆の妻を自分に差し出させたりしていた。また祭祀権・叙任権(人事権)などの諸権力を天皇家から接収し、義満の参内や寺社への参詣にあたっては、上皇と同様の礼遇が取られた。1408年(応永15年)3月に北山第へ後小松が行幸したが、義満の座る畳には天皇や院の座る畳にしか用いられない繧繝縁が用いられた。4月には宮中において次男・義嗣の元服を親王に准じた形式で行った。これらは義満が皇位の簒奪を企てていたためであり、明による日本国王冊封も当時の明の外圧を利用しての簒奪計画の一環であると推測している[28][48]

今谷は義満は中国(明)の影響を強く受けていたが、易姓革命思想ではなく当時流行した『野馬台詩』を利用していたのではないかと推測する。この詩は予言として知られており、天皇は100代[49]で終わり、英雄を称した末に日本は滅ぶと解釈できる内容だった。「百王説」と呼ばれる天皇が100代で終わるという終末思想は慈円愚管抄』などに記録されており、幅広く浸透していたことが推測できる。鎌倉公方足利氏満年生まれ(ただし現在では年生まれとされる)、義満は年生まれだから猿や犬とは2人のことであるという解釈もされていた。

なお、皇位簒奪とは義満みずからが天皇に即位するわけではなく治天の君(実権を持つ天皇家の家長)となって王権(天皇の権力)を簒奪することを意味している。寵愛していた次男、義嗣を天皇にして自らは天皇の父親として天皇家を吸収するというものである。

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出典:Wikipedia
2019/11/14 00:00
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