森田一義アワー 笑っていいとも!
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5.番組の歴史
5.6.1980年代
前番組の帯バラエティ番組『笑ってる場合ですよ!』の後番組として、日本の「おの顔の番組」をコンセプトに、第1回(1982年10月4日)に当番組が放送スタート。総合司会者として森田一義(タモリ)が就任した[30][31]
なお、総合司会者の候補には、タモリの他にビートたけし、明石家さんま(共に『笑ってる場合ですよ!』のレギュラー)の名前が挙がっていたことを、2012年10月1日放送分と2014年3月31日のテレフォンショッキングに出演した、ビートたけしが明かしている[32]。また小松政夫には、タモリと二人で司会をというオファーがあった(小松とタモリは同郷(福岡県出身)同士ということで親交もあった)が、当時ゴルフに熱中していた小松は「(平日毎日の生放送に出演していたら)ゴルフに行けなくなっちゃう」として断ったことを自著で明かしている[33]
記念すべき最初の日替わりコーナーは「タモリの世界料理」という、タモリがフランス料理に挑戦する企画で、番組開始時、全期間に渡り行われたテレフォンショッキングは最後のコーナーだった。
過去にエンディング終了後に翌日(金曜日の場合は翌週月曜日または『増刊号』)の番組内容を紹介する5秒の予告があったが、1987年に一旦廃止 → 1988年 - 1996年まで復活 → 2004年に再び復活し、最終回前の2014年3月28日まで表示された。
開始時のネット局数は22局(そのうちFNSマストバイ局は18局、クロスネット局は4局)だった。
1982年10月11日、タモリが薄い色のサングラスを変更。このサングラスは、1990年7月23日まで着用された[34]
1982年10月15日、番組史上最低視聴率の2.8パーセントを記録した(ビデオリサーチ調べ、関東地区・世帯・リアルタイム)。なお、この日に出演したテレフォンゲストは三波豊和[35]
1983年4月4日、テレビ長崎で放送を開始(時差ネット)。
1983年9月26日、テレビ岩手で放送を開始(時差ネット)。
1983年9月30日、四国放送での放送が終了。徳島県では隣県局の越境受信が常態化していた。
1983年10月3日、新潟総合テレビ[36]福島テレビ[37] にて放送を開始。また、系列外の青森テレビ[38] もこの日から時差ネット (16:00 - ) 開始。
1983年12月1日、この日のテレフォンショッキングのゲストは佳山明生だったが、ゲストが登場する前に突如として一般人の男性が乱入。タモリが冷静に男性に話しかけるがスタジオ内は不穏な空気に包まれる。やがて番組スタッフが男性を強制的に退場させるが、その時の男性の行動なのかスタジオは悲鳴の嵐となる(カメラはタモリや観覧席を映し、男性は映らないよう考慮していた)。男性は「芥川賞の選考結果」について述べるために乱入したそうで、これ以降スタジオの警備が一層厳正化された。
1984年1月、「『笑っていいとも!』3月で打ち切り」と一部スポーツ新聞などで報道されるが、2月に番組続行が発表される[39]
1984年4月2日、大分放送での放送を開始(時差ネット)。
同時に、ネット局数が29局となり、同時間帯における放送地域数並びに放送局数(遅れネット局も含む)の最多の番組では、この日から系列外ネットが消滅した『テレビ小説』(旧:『ポーラテレビ小説』)を上回ることになった。その後も終了に至るまで本番組は同時間帯における放送地域数並びに放送局数(遅れネット局も含む)では最多の番組だった。なお、最大ネット局数は31局だった。
1985年1月11日 、テレフォンショッキングに、この日のゲストの原田伸郎ではなくビートたけしが冒頭サプライズで乱入。この週はタモリが正月休暇中のため、さんまが司会を代行しており、サプライズで登場するため緑のコートに顔を隠すようにセミロングのウィッグと髭を被って扮装し、誰なのか全く分からない状態で登場したため、さんまや観客も一時騒然になった。また、この前日の1月10日のエンディングでは、『オレたちひょうきん族』の出張懺悔室が登場。1月9日のエンディングで「また明日も見てくれるかな?」と言うべきところを「また来週も見てくれるかな?」と言ってしまった罪を償うためで、結局×となりさんまが水を被ることとなった。
1986年5月12日、愛媛県松山市から公開生放送[40]テレビ愛媛(当時の社名は愛媛放送)が制作協力)。
1987年10月5日、2代目プロデューサー(当時は「チーフプロデューサー」という肩書きはなかった)に佐藤義和(以下、佐藤P)が就任し、番組が大幅にリニューアルされた。同時にテレフォンへ日替わりでフジテレビアナウンサーが担当する「テレフォンアナウンサー」を導入し、番組終了まで、約27年間担当アナウンサーが何代も入れ替わりながらも続いた。セット変更(1回目・1989年に2回マイナーチェンジ)。
1988年4月29日、この日は当時としては天皇誕生日で、番組史上最高視聴率の27.9パーセントを記録した(ビデオリサーチ調べ、関東地区・世帯・リアルタイム)。なお、この日に出演したテレフォンゲストは田原俊彦
1989年1月9日 - 13日、昭和天皇崩御(7日)に関連し、通常放送は中止。過去のテレフォンショッキングの総集編からなる代替番組『友達の輪スペシャル』として放送[41]。この間、過去のVTRを除いてタモリなどの出演者は一切登場せず、フジテレビの男性アナウンサーのみで進行。なお、この週のテレビ欄の当番組部分は、番組内容は空白でタイトルのみが記載されていた[42]。その後、15日は『増刊号』を通常通り放送して、翌16日から病状悪化前の通常編成に戻った。
1989年5月19日、司会のタモリが当時は実話とされていた『一杯のかけそば』を批判したことがきっかけで『一杯のかけそば』ブームが終焉に向かう(詳細は#現象を参照)。
1989年9月18日、当番組は司会のタモリの出身地である福岡県福岡市イムズホールから生放送。テレビ西日本が制作協力となり、テレフォンアナウンサーに同局の田久保尚英が起用されたほか、同局のスタッフも制作に参加した。
[4]前ページ
(5.5.25年連続同時間帯視聴率首位記録)
[6]次ページ
(5.7.1990年代)
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出典:Wikipedia
2019/10/12 18:01
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