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新選組
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2.歴史
2.1.結成
文久2年(1862年)、江戸幕府庄内藩郷士清河八郎の献策を受け入れ、将軍徳川家茂上洛に際して、将軍警護の名目で浪士を募集。

翌文久3年(1863年)2月、集まった200名あまりの浪士たちは将軍上洛に先がけ「浪士組」として一団を成し、中山道を西上する。浪士取締役には、松平上総介鵜殿鳩翁窪田鎮勝山岡鉄太郎松岡萬中條金之助佐々木只三郎らが任じられた。

京都に到着後、清河が勤王勢力と通じ、浪士組を天皇配下の兵力にしようとする画策が発覚する。浪士取締役の協議の結果、清河の計画を阻止するために浪士組は江戸に戻ることとなった。これに対し近藤勇土方歳三を中心とする試衛館派と、芹沢鴨を中心とする水戸派は、あくまでも将軍警護のための京都残留を主張した。

鵜殿鳩翁は、浪士組の殿内義雄家里次郎に残留者を募るよう指示。これに応えて試衛館派、水戸派、殿内以下、根岸友山一派などが京都の壬生村に残ったが、根岸派は直後に脱隊。殿内・家里は排斥され、同年3月公武合体に基づく攘夷断行の実現に助力することを目的とし、新選組の前身である「壬生浪士組」(精忠浪士組)を結成。一方、江戸に戻ったメンバーは新徴組を結成した。

壬生浪士組は壬生村の八木邸や前川邸およびその周辺の邸宅を屯所とし、第一次の隊士募集を行う。その結果36名あまりの集団となり、京都守護職松平容保から、おもに不逞浪士の取り締まりと市中警備を任される。

4月大坂両替商平野屋五兵衛に100を提供させ、これを元手に隊服隊旗を揃え、隊規の制定にとりかかる。

6月大坂相撲力士と乱闘になり殺傷する。壬生浪士組にも負傷者が出た。奉行所は力士側に非があると判断。力士側は壬生浪士組に50両を贈り詫びを入れる。

8月、芹沢鴨ら約30名の隊士が、京都の生糸問屋大和屋庄兵衛に金策を謝絶されたことに腹を立て放火。刀を抜いて火消を寄せつけず、一晩かけて焼き尽くす。この事件に松平容保は憤り、近藤らを呼び出し処置を命じたとされるが、芹沢および壬生浪士組の関与については否定的な見解が存在している[3]

同月、壬生浪士組は八月十八日の政変の警備に出動し、その働きを評価される。そして、新たな隊名「新選組」を拝命する。隊名は武家伝奏[4] から賜ったという説と、松平容保から賜ったという説の2つがある。後者の説は、会津藩主本陣の警備部隊名を容保からもらったという意味である。

9月、近藤・土方ら試衛館派が八木邸で芹沢鴨、平山五郎を暗殺。平間重助は脱走、野口健司12月切腹。水戸派は一掃され、試衛館派が組を掌握し近藤を頂点とする組織を整備した。

発展[編集]


元治元年(1864年6月5日池田屋事件で尊王攘夷派志士を斬殺・捕縛。8月禁門の変の鎮圧に参加した。

池田屋事件と禁門の変の働きで朝廷・幕府・会津藩から感状と200両あまりの恩賞を下賜されると、同年9月に第二次の隊士募集を行うこととなった。池田屋事件で新選組の知名度が上がっていたことから土方、斎藤、伊藤、藤堂平助などの幹部が直接江戸へ向かい剣術道場などを訪問し、伊東甲子太郎らの一派を引き入れることに成功、翌年五月に32名で京都に戻ったことが確認されている[5]。これらの活動により新選組は200名まで増強され、隊士を収容するために壬生屯所から西本願寺へ本拠を移転する。

長州征伐への参加に備え、戦場での指揮命令が明確になる小隊制(一番組〜八番組および小荷駄雑具)に改組。「軍中法度」も制定した。しかし新選組に出動の命令はなかった。

慶応3年(1867年3月、伊東甲子太郎らの一派が思想の違いなどから御陵衛士を結成して脱退。同年6月、新選組は幕臣に取り立てられる。同年11月、御陵衛士を襲撃し、伊東らを暗殺する(油小路事件)。

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出典:Wikipedia
2020/01/23 00:00
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