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戦国時代 (日本)
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6.信長登場以後
1560年に、尾張国織田信長桶狭間の戦い今川義元を討ち取り、1567年に美濃国斉藤氏から奪い1568年に信長は足利義輝の弟・足利義昭を奉じて上洛する。信長は義昭の名で四方大名へ命令を発布、天下人への道を歩み始める。信長が入京して最初にしたことは大津山崎など商業都市を直轄地としたことである。また、イエズス会ルイス・フロイスに京居住・布教を許している(1568年)など京都統治も行っている。

この頃になると、信長の動きに関連して各地方の有力な大名も勢力を伸ばしてゆく。桶狭間の戦いの後に今川氏の庇護下から松平氏の旧領三河を回復した徳川家康、関東の後北条氏、甲斐・信濃の武田氏、北陸の上杉氏、中国地方の毛利氏、四国の長宗我部氏、九州の島津氏などである。これらの大名は信長と同盟を結んだり、あるいは他の大名と同盟を結んで信長に対抗したりした。信長との関係が悪化した将軍の足利義昭が音頭を取り、比叡山本願寺武田信玄上杉謙信毛利輝元朝倉義景浅井長政松永久秀三好三人衆ら反信長派が結集して信長包囲網を築き上げたが、各個撃破を受け崩壊、足利義昭は京を追われた(幕府という形態はこの後、備後に細々と続く)。各地で発生した一向一揆と信長の戦いも続き、石山本願寺とは10年間徹底的に抗戦した(石山合戦)。織田信長はこれらの敵対勢力を次々と屈服させ、1582年までには日本中央部を制圧し、天下統一の寸前までを実質的に成し遂げたが、最後は本能寺の変明智光秀に攻められ嫡男の信忠と共に自害する。

信長の死後、織田家重臣である羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)は本能寺の変が発生すると中国大返しを行い、いち早く山崎の戦い明智光秀を倒し、翌年には信長の後継を巡り対立した柴田勝家賤ヶ岳の戦いで破り覇権を確立した。

清洲会議で信長の嫡孫三法師(後の織田秀信)を擁して覇権を確立した羽柴秀吉であったが、1584年に安土城から織田信雄を退去させるなど両者の関係は悪化していた。信雄は徳川家康とともに挙兵し、さらには雑賀衆根来衆北条氏政長宗我部元親佐々成政らが秀吉包囲網を築きあげたが、戦線が悶着したところで信雄は秀吉に懐柔され家康は撤退、包囲網は解散した(小牧・長久手の戦い)。家康は秀吉に臣従する形となったが豊臣政権で重く用いられている。

秀吉は豊臣姓を賜り関白となるなど朝廷を中心とした日本の伝統的な官位も活用して支配を進めていった。秀吉は惣無事令を発布して日本全土を名目的に統一、更には太閤検地刀狩身分統制令、貨幣統一を行い、1590年には小田原征伐で後北条氏を滅ぼし名実ともに統一を達成した。統一後の1592年と1597年には朝鮮出兵(文禄の役・慶長の役)も行ったが、秀吉の死去により退却した。その後李氏朝鮮とは江戸時代初期に対馬宗氏を通じて国交が回復している。

秀吉の死後、豊臣政権五大老の一人徳川家康を中心とする東軍と豊臣政権の五奉行の一人石田三成を中心とする西軍が戦った関ヶ原の戦いで東軍が勝利し、東軍総大将を務めた徳川家康は関ヶ原の戦いの戦後処理として諸大名の転封改易を行い、1603年、征夷大将軍に任じられ江戸に幕府を開いた。家康は1605年に将軍職を三男の徳川秀忠に譲り、将軍職は世襲により継承するものであることを諸大名に徹底確認させた。一国一城令に従わせることは、諸大名から軍事的な拠点を奪い戦争をさせないためでもあった。家康はその後も大御所として影響力を持ち、諸大名の転封や改易を積極的に行い、方広寺鐘銘事件を名目に1614年から1615年にかけて大坂の陣豊臣秀頼の居城大坂城を攻め豊臣氏を滅ぼす。そして17世紀中期、3代将軍徳川家光が死去し4代将軍徳川家綱が就任した頃より幕府の政治は武断政治から文治政治へと転換してゆく。

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出典:Wikipedia
2020/02/17 00:32
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