赤穂事件
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5.刃傷の理由
5.8.否定された理由

持病説[編集]


浅野内匠頭は3月11日未明に勅使一行が到着してから心身に不調をきたしており持病の痞(つかえ)が出たと『冷光君御伝記』にある[203]

立川昭二はこの痞は今で言う偏頭痛か緊張性の頭痛だろうと考察している[204]。一方痞とは癪の事とも解され[205]、中島陽一郎の『病気日本史』によれば、癪は「胃痙攣、神経性の胃痛、心筋梗塞、慘出性肋膜炎、胃癌、後腹膜腫瘍、脊髄の骨腫瘍、ヒステリーなどを含んでいる」と考えられる[205]

『江赤見聞記』によれば、浅野内匠頭は「持病の痞のために行動に対する抑制が利かなくなり刃傷に及んだ」という趣旨の事を述べている[205]が、痞が癪の事だとすれば、「痞が刃傷の原因だとはとても信じられない」[205]。宮澤誠一も、「痞」が精神発作を起こしたという説を、「単なる推測の域を出ない」ものとしている[202]

また浅野内匠頭の母の弟である内藤和泉守忠勝も延宝八年に殺害事件を起こしている[206]ため、浅野内匠頭も刃傷を起こしやすい血縁にあったという説があり、『徳川実紀』にも母方の伯父(つまり内藤和泉守)が狂気の者であったと記しているが[207]、この説は「そう考えれば考える事もできる」という程度のものである[206]。しかも『徳川実紀』は江戸後期に編纂されたもので、必ずしも当時の記録によったものではない[207]

仮にこうした持病説が正しいとしても、それは事件を及ぼす為の要因の一つであってもそれだけで事件の原因を十分説明しきれるものではない[207]

塩の生産をめぐる対立[編集]


浅野内匠頭と吉良上野介の確執の原因は、赤穂と吉良地方におけるの製法や販路の問題で対立があった事が原因とする説がある。

吉良地方に古くから伝わる伝説[208]によれば、吉良上野介が自身の知行所で塩田を開発しようとして、塩の生産で有名な赤穂藩に隠密を放った。隠密は赤穂藩で捕らえられたが何とか逃げ帰り、吉良領に赤穂の入浜塩田の技術を伝えたという[208]

また昭和22年に田村栄太郎の書いた『裏返し忠臣蔵』でも塩に関する対立説を扱っており[208]、昭和29年には吉良出身の作家の尾崎士郎も随筆『きらのしお』でこの説を唱え[209]、他にも海音寺潮五郎南條範夫もこの説に沿った本を出している[208]

史実においても当時赤穂が塩田の技術で全国をリードしていたのは事実ではあるが[208]、この技術は決して秘密にされていたわけではない[208]。当時、赤穂の製塩技術は瀬戸内海各地に急速に広まっており[208]、仙台藩が塩業技術者を依頼してきたときも赤穂藩はこれに応じており[208]、吉良との間に塩業で確執が生まれるとは考え難い[208]

また赤穂の塩が主に大阪で売られていたのに対し、吉良産の「饗庭塩」は三河など東海方面で売られており[210]、販路・商圏の点でも直接の競合関係になかったとされる[210]

そもそも義央が刃傷事件に遭遇した元禄14年以前に開発された三河国幡豆郡の塩田は本浜及び白浜のみで、このうち本浜塩田が所在する吉田村は甘縄藩松平領、白浜塩田が所在する富好外新田村は幕府領でいずれも吉良領ではない。当然ながら吉良家の歴史の中で塩作りを行ったという記録は無い。

浅野内匠頭任官のときからの遺恨という説[編集]


『赤城盟伝』には「上野介に宿意があるのは一朝一夕の事ではない。ずっと前からの事である」と書いてあり、この「ずっと前の宿意」が寛文11年浅野内匠頭が将軍家綱にはじめてお目通りした際、その場にいた上野介が内匠頭を侮辱したものだとするもの[211]。『赤穂記』にこの説が書いてあるが、寛文11年の段階では内匠頭は5歳であり、この説には信憑性がない[211]

衆道に関する怨恨[編集]


浅野内匠頭のお気に入りの美しい小姓の日比谷右近を吉良上野介が懇望したが、断られたため確執ができたという説。

『誠忠武艦』という「幕末に成立した赤穂事件の経緯を真偽取交ぜてのべた」[212]文献にこの説がでている[211]。また『正史実伝いろは文庫』の十三回にも同じ話が載っている[213]

しかし福本日南は「吉良上野介は61歳の白髪翁、最早若い衆の争いでもあるまい」としている[211]

茶器に関する怨恨[編集]


浅野家伝来の「狂言袴」という茶入れを吉良が欲しがったが、断られたため確執ができたとする説。

これは「余程後世になっていい出された説」[211]で、高山喜内の『元禄快挙義士の真相』に載っている[211]

一休の書画の鑑定に関する怨恨[編集]


浅野内匠頭と吉良が茶会で出会い、山田宗?が持ってきた一軸を吉良が「一休の真筆だ」といったところ、内匠頭がそうでない証拠を出して吉良をやり込めたので、確執ができたとする説[211]

実録本の『赤穂精義参考内侍所』に載っている説である。

しかしこの話は史料には見当たらず、しかも浅野内匠頭と吉良が茶会で平素から交流があったとしており、事実とは考えにくい[211]

内匠頭の謡曲[編集]


明治末期に著された小野利教の『赤穂義士真実談』にでている話[211]

元禄13年に内匠頭が謡曲熊野を舞ったところ、上野介から「クセがよくない」と非難を受けた事を内匠頭が根に持ったとするもの[211]。これも一休の書画と同じ理由で信憑性がない[211]

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出典:Wikipedia
2020/01/24 04:30
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