赤穂事件
▼人気記事ランキング
5.刃傷の理由
5.7.否定された理由

吉良のいじめ[編集]


史実に俗説を取り交えて書かれた[202]『赤穂鍾秀記』(元禄16年元加賀藩士の杉本義鄰著)の憶測によれば、吉良は元来奢侈で利欲深く、いつも過言し、「付届け」の少ない者には指図を疎かにしたり陰口をたたいたりする人物であったという[202]
同書によれば、浅野が吉良に付届けをしなかったので吉良は不快に思い、浅野が勅使をどこで迎えるべきかと吉良に問うたところ、「そんな事は前もって知っておくべきだ」と嘲笑し、「あのような途方もないことをいう人間にごちそう人が勤まるか」と少し声高に雑言したという[202]。同書はさらに、勅使が休憩する増上寺宿坊の畳替えを吉良が指示せず浅野内匠頭が危うく失態を招きそうになったという話や、「吉良から無礼な事をされても堪忍すべきだ」と親友の加藤遠江守から浅野が忠告されたという話が載っている[202]

後の「赤穂義士」観に決定的な影響を与えた室鳩巣の『赤穂義人録』(元禄16年10月著、宝永6年改訂)では、さらにはっきりと吉良が儀式作法を伝授する際「賄賂」を受け取っていたと書かれている[202]。同書によれば、浅野は公私をわきまえず贈り物をする気は全くなかった事が吉良との不和の根本原因となったという[202]。そして「大広間の廊下」で浅野は勅使の迎え方で吉良から侮辱される[202]。梶川が「勅答の礼が終わったら連絡してほしい」と浅野に伝えると、吉良は横から口を挟み、「相談は私にすべきだ。そうでないと不都合が生じるでしょう」と浅野を侮辱し、さらに吉良が「田舎者は礼を知らない。またお役目を辱めるだろう」と追い打ちをかけた為、浅野は刃傷に及んだという[202]

しかしこうした記述は刃傷の場に居合わせた梶川与惣兵衛の書いた『梶川与惣兵衛筆記』の記述と矛盾しており、「大胆な虚構」に基づいて書かれたものである[202]

また忠臣蔵のドラマ等では、吉良による以下のような苛めが描かれるが、佐々木杜太郎はこれに対して反証をしている。

増上寺や寛永寺の畳替えが必要なのに、吉良が「畳替えは必要ない」と嘘をついた、というもの。しかし当時の御馳走役の任務に増上寺や寛永寺の警護は入っていたが修繕は入っていないし[203]、刃傷は増上寺の参詣の翌日の事であるので[203]信憑性に乏しい。
殿中での服装は本来、烏帽子大紋なのに、長上下を身に着けるべきだと吉良が内匠頭に嘘をついた、というもの。しかし内匠頭は2度目の御馳走役なのだから、服装に関してはすでに知っているはずであり、信憑性に乏しい[203]
伝奏屋敷に墨絵の屏風が置いてあったが、吉良から難癖をつけられたので、あわてて金屏風に取り換えた、というもの。史実としても刃傷後に伝奏屋敷に引き取りに行った道具の目録に金屏風がある[203]。しかし天保8年の文献に「伝奏屋敷は前々から金屏風であった」と書いてあり、初めから金屏風があったものと思われる[203]。しかも内匠頭は2度目の御馳走役なのだから、この辺も熟知していたはずである。
老中の連名の奏書を吉良が内匠頭に見せなかったというもの。信夫恕軒の『義士の真相』などに載っている説である[203]が、事件の場に立ち会った梶川与惣兵衛による『梶川与惣兵衛筆記』には奏書の事は書いておらず[203]、信憑性に乏しい。

持病説[編集]


浅野内匠頭は3月11日未明に勅使一行が到着してから心身に不調をきたしており持病の痞(つかえ)が出たと『冷光君御伝記』にある[204]

立川昭二はこの痞は今で言う偏頭痛か緊張性の頭痛だろうと考察している[205]。一方痞とは癪の事とも解され[206]、中島陽一郎の『病気日本史』によれば、癪は「胃痙攣、神経性の胃痛、心筋梗塞、慘出性肋膜炎、胃癌、後腹膜腫瘍、脊髄の骨腫瘍、ヒステリーなどを含んでいる」と考えられる[206]

『江赤見聞記』によれば、浅野内匠頭は「持病の痞のために行動に対する抑制が利かなくなり刃傷に及んだ」という趣旨の事を述べている[206]が、痞が癪の事だとすれば、「痞が刃傷の原因だとはとても信じられない」[206]。宮澤誠一も、「痞」が精神発作を起こしたという説を、「単なる推測の域を出ない」ものとしている[202]

また浅野内匠頭の母の弟である内藤和泉守忠勝も延宝八年に殺害事件を起こしている[207]ため、浅野内匠頭も刃傷を起こしやすい血縁にあったという説があり、『徳川実紀』にも母方の伯父(つまり内藤和泉守)が狂気の者であったと記しているが[208]、この説は「そう考えれば考える事もできる」という程度のものである[207]。しかも『徳川実紀』は江戸後期に編纂されたもので、必ずしも当時の記録によったものではない[208]

仮にこうした持病説が正しいとしても、それは事件を及ぼす為の要因の一つであってもそれだけで事件の原因を十分説明しきれるものではない[208]

塩の生産をめぐる対立[編集]


浅野内匠頭と吉良上野介の確執の原因は、赤穂と吉良地方におけるの製法や販路の問題で対立があった事が原因とする説がある。

吉良地方に古くから伝わる伝説[209]によれば、吉良上野介が自身の知行所で塩田を開発しようとして、塩の生産で有名な赤穂藩に隠密を放った。隠密は赤穂藩で捕らえられたが何とか逃げ帰り、吉良領に赤穂の入浜塩田の技術を伝えたという[209]

また昭和22年に田村栄太郎の書いた『裏返し忠臣蔵』でも塩に関する対立説を扱っており[209]、昭和29年には吉良出身の作家の尾崎士郎も随筆『きらのしお』でこの説を唱え[210]、他にも海音寺潮五郎南條範夫もこの説に沿った本を出している[209]

史実においても当時赤穂が塩田の技術で全国をリードしていたのは事実ではあるが[209]、この技術は決して秘密にされていたわけではない[209]。当時、赤穂の製塩技術は瀬戸内海各地に急速に広まっており[209]、仙台藩が塩業技術者を依頼してきたときも赤穂藩はこれに応じており[209]、吉良との間に塩業で確執が生まれるとは考え難い、と比定する意見がある[209]

また赤穂の塩が主に大阪で売られていたのに対し、吉良産の「饗庭塩」は三河など東海方面で売られており[211]、販路・商圏の点でも直接の競合関係になかったとされる[211]

浅野内匠頭任官のときからの遺恨という説[編集]


『赤城盟伝』には「上野介に宿意があるのは一朝一夕の事ではない。ずっと前からの事である」と書いてあり、この「ずっと前の宿意」が寛文11年浅野内匠頭が将軍家綱にはじめてお目通りした際、その場にいた上野介が内匠頭を侮辱したものだとするもの[203]。『赤穂記』にこの説が書いてあるが、寛文11年の段階では内匠頭は5歳であり、この説には信憑性がない[203]

衆道に関する怨恨[編集]


浅野内匠頭のお気に入りの美しい小姓の日比谷右近を吉良上野介が懇望したが、断られたため確執ができたという説。

『誠忠武艦』という「幕末に成立した赤穂事件の経緯を真偽取交ぜてのべた」[212]文献にこの説がでている[203]。また『正史実伝いろは文庫』の十三回にも同じ話が載っている[213]

しかし福本日南は「吉良上野介は61歳の白髪翁、最早若い衆の争いでもあるまい」としている[203]

茶器に関する怨恨[編集]


浅野家伝来の「狂言袴」という茶入れを吉良が欲しがったが、断られたため確執ができたとする説。

これは「余程後世になっていい出された説」[203]で、高山喜内の『元禄快挙義士の真相』に載っている[203]

一休の書画の鑑定に関する怨恨[編集]


浅野内匠頭と吉良が茶会で出会い、山田宗?が持ってきた一軸を吉良が「一休の真筆だ」といったところ、内匠頭がそうでない証拠を出して吉良をやり込めたので、確執ができたとする説[203]

実録本の『赤穂精義参考内侍所』に載っている説である。

しかしこの話は史料には見当たらず、しかも浅野内匠頭と吉良が茶会で平素から交流があったとしており、事実とは考えにくい[203]

内匠頭の謡曲[編集]


明治末期に著された小野利教の『赤穂義士真実談』にでている話[203]

元禄13年に内匠頭が謡曲熊野を舞ったところ、上野介から「クセがよくない」と非難を受けた事を内匠頭が根に持ったとするもの[203]。これも一休の書画と同じ理由で信憑性がない[203]

[4]前ページ
(5.6.浅野内匠頭の性格)
[6]次ページ
(6.寺坂吉右衛門問題)
~目次に戻る
出典:Wikipedia
2019/12/10 18:31
ソ人気記事ランキング
2019/12/11 更新
 1位日本
 2位無名塾出身の俳優一覧
 3位松本ちえこ
 4位山口小夜子
 5位12月10日
▲上に戻る
[9]Wikipediaトップ
[0]gooトップ
免責事項
(C)NTT Resonant