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西蔵
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3.「西蔵」という地理的枠組みの起源
1637年から1642年にかけてチベットの大部分を征服したグシ・ハンは、チベットの政治・文化の中心ヤルンツァンポ河流域を主とする地方をダライラマ五世に寄進、自らとダライラマ領の統治者デシーを、「ダライラマの権威の下で、チベットにおける太陽と月の一対」と位置づけ、ダライラマ領を除く各地の諸侯に対しては、自身と子孫との間に貢納と所領の安堵を媒介とする主従関係を結ばせた。

清国雍正帝は、グシ・ハン一族の内紛に乗じて1723年 - 1724年、チベット東北部のアムド地方に出兵し、この地に本拠をおいていたグシ・ハン一族を屈服させ、グシ・ハン王朝の成立以来、彼らがチベットの各地やチベット人諸侯に対して保有していた権益や支配権をすべて接収した(雍正のチベット分割)。

清国は、接収したグシハン一族の属領をタンラ山脈からディチュ河(金沙江)にかけての線で二分し、その北部・東部に対しては、青海地方のほか甘粛雲南四川等の諸省の間で分割し、その南部は、ダライ・ラマを擁し、ラサに本拠をおくガンデンポタンの管轄下にゆだねた。「西蔵」という単語は17世紀の資料にも散見されるが、この分割以降、チベットのうち、ガンデンポタンが管轄する領域の呼称となる。この線の北部・東部のモンゴル人・チベット人諸侯は「旗制」もしくは「土司」制度のもと、青海、四川、甘粛、雲南等の諸地方に分配され、個別に清朝皇帝に臣属することとなった。

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(2.中国における初期の用例)
[6]次ページ
(4.「西蔵の分割」と「ガンデンポタンの勢力拡大」のせめぎ合い)
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出典:Wikipedia
2019/12/24 16:00
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