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清水善造
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2.テニス選手としての経歴
清水は第1次世界大戦後の時代に活躍し、熊谷一弥と共に日本テニス界の黎明期を築いた名選手である。清水は旧制高崎中学校時代に軟式テニスと出会い、東京高等商業学校時代に庭球部に入部、東京高商の最上級生時代には主将を務めるなど選手として活動した後、三井物産カルカッタ駐在員時代に硬式テニスに初めて接して、本格的に硬式テニス選手としてプレーするようになる[1]。なお、日本に初めてテニスが紹介されたのは1878年明治11年)であったが、ボールの製造に必要なゴムが輸入困難であったことから、日本独自の軟球を用いたソフトテニス(軟式テニス)が編み出される。そのため、通常は「テニス」と呼ばれるスポーツに“硬式”テニスという呼称があるのも日本独特の呼び方である。清水は日本における硬式テニスの開拓者として活動した。

清水はカルカッタ時代にベンガル州選手権大会で1915年から1919年まで5年連続優勝、商用で赴いたブエノスアイレスアルゼンチン)で出場した南米選手権でも優勝するなど実績を積み重ねる[1]

1920年大正9年)には長期休暇を利用してイギリスに渡航、イギリス国内の試合に出場しながら6月のウィンブルドン選手権大会に臨む。そのウインブルドン選手権で、清水はいきなり「チャレンジ・ラウンド」(前年優勝者への挑戦権決定戦)の決勝まで勝ち進んだ[1]

当時はテニス・トーナメントの方式も現在とは大きく異なり、前年優勝者は無条件で決勝に行き、そこで1回戦から勝ち上がる選手(チャレンジ・ラウンドの優勝者)と決勝戦を戦う「オールカマーズ・ファイナル」(All-Comers Final)方式を採用していた。そのチャレンジ・ラウンド決勝戦で、清水は当時の世界ナンバーワン選手であったビル・チルデンアメリカ)に 4-6, 4-6, 11-13 の激戦で敗れたが、この大活躍で硬式テニスを日本に紹介した。チャレンジ・ラウンド決勝で清水を破ったチルデンは、オールカマーズ・ファイナルにて1919年度の優勝者ジェラルド・パターソンオーストラリア)に勝ち、大会初優勝を飾った。翌1921年のウィンブルドンではチャレンジ・ラウンド準決勝でマニュエル・アロンソスペイン)に敗れ、2年連続のチャレンジ・ラウンド決勝進出を逃した。

1921年に、日本チームは男子国別対抗戦「デビスカップ」にも初出場を果たす。「アメリカン・ゾーン」よりオールカマーズ・ファイナルに進み、日本はアメリカに0勝5敗で敗れたが、清水はここでもチルデンに健闘している。(2セット・アップ=先に2セットを先取した状態から、チルデンに3セットを連取されて逆転負けした。)これらの成績により、清水は当時の世界ランキングで、1920年は9位、1921年は4位にランクされた。

こうして清水の活躍は、同郷(群馬県)の後輩に当たる佐藤次郎を始めとする後続の日本男子テニス選手たちに大きな刺激を与えた。海外でも清水は、その礼儀正しさから「ミスター・シミー」、にこやかな笑顔から「スマイリー・シミー」という愛称で呼ばれたという。

1923年に発生した関東大震災復興支援のために清水はアメリカ各地で開催された義援金募集チャリティー試合に出場したという[1]

1927年に選手生活を引退し、三井物産での社業生活に戻るが、その一方では後進の育成に尽力し、1954年にデビスカップの日本代表監督に就任する。宮城淳加茂公成ら当時の日本の一線級選手をメンバーとして率いた海外遠征ではメキシコに赴き、そこで日本代表チームは「2勝3敗」でメキシコ・チームに敗れたが、その帰途で清水はアメリカに立ち寄り、前年(1953年6月5日)に死去した旧友チルデンの墓参に行った[1]

故郷である群馬県テニス協会は、清水善造の名を冠した大会『清水善造杯群馬県テニス選手権大会』を毎年夏の終わりから秋にかけて開催している[2]

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出典:Wikipedia
2019/07/10 00:31
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