成田空港予定地の代執行
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1.概要
1.1.代執行に至るまでの経緯
新東京国際空港建設は、日本国政府側の説明・根回し不足により、地元住民らの猛反発を招いた。更に機動隊の投入等の強硬措置が取られたことで、地元住民らが結成した三里塚芝山連合空港反対同盟(以下、反対同盟)は当時実力闘争を行って台頭していた新左翼を頼り、事態はより一層複雑化した。

空港の設置を行う新東京国際空港公団(以下、空港公団)は、空港予定地内民有地の約9割を取得し、計画の半分の施設を1期工事で建設して開港にこぎつけようとした。しかし、未買収地は依然残されており、その中には空港に絶対不可欠な滑走路予定地も含まれていた。

一方東京国際空港(羽田空港)では、発着回数がその処理能力を超えたために、着陸時の上空待機・離陸時の遅延などの現象が現れ減便調整を余儀なくされており、一刻も早い国際線の移管が求められていた[1]。用地交渉の担当者からは任意の売買による用地取得を続けるべきとの声もあったが[2]、新空港の早期開港を目指す政府に急き立てられるようにして、空港公団は公権力による用地取得、即ち土地収用を実施するため手続きを進めていった。

1969年12月16日、新東京国際空港建設事業は、土地収用法第20条に基づく建設大臣からの事業認定を受けた。これにより空港建設は公共事業として扱われ、地権者の意思にかかわらず、千葉県収用委員会の採決を条件として、土地収用法第102条の2第2項の規定により、千葉県知事の権限で行政代執行法の手続きのもと必要な土地を収用することが可能になった。収用の規模としては、「蜂の巣城紛争」で知られる下筌ダムを凌ぐ、戦後最大のものとなった[3]

翌年から空港公団は、収用委員会への申請に必要な土地調書及び物件調書を作成するため、土地収用法第35条に基づく未買収地への立入調査を実施した。これに対し反対派は、子供を含む家族総出で抵抗した。1970年9月30日から10月2日に実施され『三日間戦争』と俗称される第三次立入調査では、反対同盟は「糞尿弾」と称して人糞を詰めたポリ袋を空港公団の測量班や機動隊に投げつけるなどして抵抗し、空港公団や機動隊との激しい攻防が行われ、逮捕者が59人にも及んだ[4]

1970年3月3日、空港公団は滑走路予定地の北端にあり大規模な埋め立てが必要となる谷津田の6件6[5]一坪共有地1486 m2について、千葉県収用委員会に権利取得と明渡しを求めて申請を行い、収用委員会は12月26日に収用採決を行った。

更に1970年12月28日には、1期工事が公共用地の取得に関する特別措置法第2条に基づく建設大臣からの特定公共事業認定を受け、損失補償に関して審理を尽していないものがある場合においても、明渡裁決が可能となった(緊急裁決)。

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出典:Wikipedia
2019/10/17 00:03
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