成田空港問題
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2.歴史
2.7.一坪再共有化運動に端を発する内紛(内ゲバ)
1980年代に入っても、反対運動は一定の力を維持し、二期工事の着工をしばらく阻んでいたが、反対同盟は主に「一坪再共有化運動」や「立木トラスト[13]の是非をめぐって1983年(昭和58年)3月8日に分裂し、「一坪再共有化運動」を「土地の売り渡し」「金儲け運動」として反対した中核派[14]らは「北原派」を、「再共有化」を推進する第四インター派らは「熱田派」を支持した。

3月8日には、のちの「熱田派」が「総会」、のちの「北原派」が「実行役員会」をそれぞれ開催した。芝山町千代田公民館で行われた「総会」には反対派農民160人が出席し、「中核派支持色が強い」とされた北原鉱治事務局長の解任に反対派農家194戸のうち145戸が賛成、25戸が反対、24戸が保留し、北原の解任を決定した。また、中核派との共闘を絶つことも同「総会」で確認された。

一方、成田市天神峰「現地闘争会館」で開催された「実行役員会」には、反対派農民58人が参加。「一坪再共有化運動」を推進する青年行動隊の石井新二を「反対同盟から除名した」とし、22人を「反対同盟の役職から解任した」とした。

中核派の「再共有化」反対論は「再共有化運動」に対する「空港用地内農民」の反発を背景にし「北原派」の中心部分は「用地内農民」だったが、石井武のように「用地内農民」で「熱田派」に加わった者もいる。逆に「一坪再共有化」を推進した「用地外騒音地域農民・住民」の多くは「熱田派」についたが、「北原派」についた「騒音地域農民・住民」(戸村一作夫人など)も存在する。

また、中核派は、第四インター派を「(空港)公団に土地を売り渡そうとする新しい型の反革命」と規定して、1984年1月、全国一斉に五箇所の第四インター派メンバー宅を襲撃、一人に頭蓋骨陥没させる重傷を負わせる暴行を働いた。7月に再び一斉に三箇所の第四インター派メンバー宅を襲撃、一人に片足切断の重傷を負わせる暴行を働いた。第四インターの後身である日本革命的共産主義者同盟 (JRCL)によると、中核は全国の「一坪共有者」に対して「次はお前だ」「殺してやる」などと組織的に恫喝を行った[12]

用地内農民を中心に形成された「北原派」だが、1987年9月に、やはり中核派への反発を背景に、用地内農民の大半が離脱して「小川派」が結成された。「北原派」反対同盟および中核派は、「熱田派」農民と伴に「小川派」に対しても「脱落派」と規定して、激しく非難・攻撃した。

しかし、1998年(平成10年)に中核派は「脱落派の再共有化に応じた人びとを含む全国1,200人の一坪共有者に訴える。その権利を絶対に守り抜くことは人民の正義であり、三里塚闘争勝利のために不可欠である」と、「一坪再共有化運動」に対する態度をそれまでの総括なく、180度転換した。ただし、第四インター派へのテロ事件、非北原派の反対派農家への脅迫や恫喝については、一切謝罪をしていない[12]

このような反対運動の迷走に嫌気をさし、移転に応じた地権者もいた。地価の高騰や後述する国との話し合いにより、土地収用法の事業認定が失効し、価格固定制がなくなったこともあり、地権者の移転先には「闘争御殿」「ゴネ得御殿」と揶揄された豪邸が立ち並び、駐車場経営などの安定した生活を手に入れた者もいた[16][10][13]。地権者の希望に応じて代替地に整備を加えたため、新東京国際空港公団の負担額はさらに増大した[13]

一方、その元地権者(元反対派)らも、移転先では「反対運動を続けていた危険人物」「反対運動の裏切り者」などの偏見や、農業の継続に必要不可欠な人間関係の再構築などに耐えねばならず、受け取った大金をめぐっての親族争いに巻き込まれた者や、補償金を元手に始めた事業に失敗した者も少なくなかった[13][18]

特に、昔から続く村落共同体での生活を続けていた者たちにとっては、新天地への移転は大きなハードルだった[19]。また、移転を決めた者には脅迫が行われ[20]、移転先への過激派による放火等も相次いだ[21]

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出典:Wikipedia
2019/11/24 23:02
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