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上杉謙信
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1.生涯
1.7.北条・武田との戦い
関東の戦線は当初、大軍で小田原城を攻囲するなど輝虎が優勢であったが、武田・北条両軍に相次いで攻撃されるに及び劣勢を強いられる。永禄4年、それまで信玄の上野国への侵攻に徹底抗戦していた箕輪城主・長野業正が病死したため、この機を逃さず信玄は上野国へ攻勢をかける。同時に北条氏康が反撃に転じ、松山城を奪還するなど勢力を北へ伸ばす。これに対し関東の諸将は、輝虎が関東へ出兵してくれば上杉方に恭順・降伏し、輝虎が越後国へ引き上げれば北条方へ寝返ることを繰り返した。信玄と同盟して関東で勢力を伸ばす氏康に対し、輝虎は安房国里見義堯義弘父子と同盟を結ぶことで対抗する。

関東出兵[編集]


永禄5年(1562年)、上野館林城主の赤井氏を滅ぼしたが、佐野昌綱が籠城する唐沢山城を攻めたものの落城させるには至らなかった。この後7月には越中国に出陣し、椎名康胤を圧迫する神保長職を降伏させた。しかし輝虎が越後国へ戻ると再び長職が挙兵したため、9月に再び越中国へ取って返し、長職を降伏させた。

ところが関東を空けている間に、武蔵国における上杉方の拠点・松山城が再度、北条方の攻撃を受ける。信玄からの援軍を加え、5万を超える北条・武田連合軍に対し、松山城を守る上杉軍は寡兵であった。既に越後国から関東へ行く国境の三国峠は雪に閉ざされていたが、輝虎は松山城を救援するため峠越えを強行。12月には上野国の沼田城に入った。兵を募って救援に向かったものの、永禄6年(1563年)2月、間に合わず松山城は落城。

しかし輝虎は反撃に出て武蔵国へ侵攻、小田朝興の守る騎西城を攻め落とし、朝興の兄である武蔵忍城主・成田長泰を降伏させた。次いで下野に転戦して4月には唐沢山城を攻め佐野昌綱を降伏させ、小山秀綱の守る下野の小山城も攻略。さらに下総国にまで進出し、秀綱の弟である結城城城主・結城晴朝を降伏させ、関東の諸城を攻略した。なおこの年、武田・北条連合軍により上野・厩橋城を奪われたがすぐに奪回し、北条高広を城代に据えている。閏12月に上野和田城を攻めた後、この年も厩橋城で越年。永禄7年(1564年)1月、北条方へ寝返った小田氏治を討伐するため常陸国へ攻め入り、28日に山王堂の戦いで氏治を破り、その居城・小田城を攻略した[17]

同年2月、三度目の反抗に及んだ佐野昌綱を降伏させるため、下野国へ出陣し唐沢山城に攻め寄せた。しかしこの時、10回に及ぶ唐沢山城での攻防戦の中でも最大の激戦となる。輝虎は総攻撃をかけるも昌綱は徹底抗戦した。結局、昌綱は佐竹義昭や宇都宮広綱の意見に従い降伏。輝虎は義昭や広綱に昌綱の助命を嘆願され、これを受け入れた。3月、上野国の和田城を攻めるも武田軍が信濃国で動きを見せたため、越後国へ帰国した(唐沢山城の戦い)。

第五次川中島の戦い[編集]


永禄7年(1564年)4月、武田信玄と手を結んで越後へ攻め込んだ蘆名盛氏軍を撃破。その間に信玄に信濃国水内郡の野尻城を攻略されたが奪還し、8月には輝虎は信玄と川中島で再び対峙した(第五次川中島の戦い)。しかし信玄が本陣を塩崎城に置いて輝虎との決戦を避けたため、60日に及ぶ対峙の末に越後に軍を引き、決着は着かなかった。

これ以降、輝虎と信玄が川中島で相見えることはない。川中島の戦いにおいて、信濃守護を兼ねる信玄の使命である信濃統一を頓挫させ、信玄の越後国侵攻を阻止することに成功した。一方で領土的には信濃の北辺を掌握したのみで、村上氏高梨氏らの旧領を回復することはできなかった。10月、佐野昌綱が再び北条方へ寝返ったため唐沢山城を攻撃し、降伏させると人質をとって帰国した。

関東の上杉方諸将の離反[編集]


永禄8年(1565年)3月、関東の中原をおさえる要衝・関宿城が北条氏康の攻撃に晒される(第一次関宿合戦)。氏康は岩付城江戸城を拠点に、利根川水系など関東における水運の要となるこの城の奪取に傾注していた。輝虎は、関宿城主・簗田晴助を救援するため下総国へ侵攻、常陸佐竹義重(佐竹義昭の嫡男)も関宿城へ援軍を送る。このため氏康は攻城を中断、輝虎と戦わずして撤退した。

6月、信玄が西上野へ攻勢をかけ、上杉方の倉賀野尚行が守る倉賀野城を攻略。9月、輝虎は信玄の攻勢を食い止めようと、大軍を指揮して武田軍の上野における拠点・和田城を攻めたが成功しなかった。なおこの年、2月に越前守護・朝倉義景が一向一揆との戦いで苦戦していたため、輝虎に救援を要請している。さらに5月には、将軍・足利義輝が三好三人衆の謀反により殺害された(永禄の変)。

永禄9年(1566年)、輝虎は常陸国へ出兵して再び小田城に入った小田氏治を降伏させるなど、攻勢をかける。また輝虎と同盟を結ぶ安房国里見氏が北条氏に追い詰められていたため、これを救援すべく下総国にまで侵出。3月20日に北条氏に従う千葉氏の拠点・臼井城に攻め寄せた[18]。上杉方が有利で実城の際まで迫ったが、3月24日に敗北する。撃退された要因は籠城方の健闘であったとされる[19]、また足利義昭の3月10日附の書状を義昭の使者が臼井の上杉軍のもとに持参して、北条氏と和睦して幕府再興のために上洛するように要請したことが、上杉軍の退却に繋がったのではないかとも指摘されている[18]臼井城の戦い)。

臼井城攻めに失敗したことにより、輝虎に味方・降伏していた関東の豪族らが次々と北条氏に降る。9月には上野金山城主・由良成繁が輝虎に背く。さらに同月、西上野の最後の拠点・箕輪城が信玄の攻撃を受けて落城。城主・長野業盛は自刃し、西上野全域に武田の勢力が伸びた。関東において、北条氏康・武田信玄の両者と同時に戦う状況となり守勢に回る。さらに輝虎は関東進出を目指す常陸の佐竹氏とも対立するようになる。

永禄10年(1567年)、輝虎は再び背いた佐野昌綱を降伏させるため唐沢山城を攻撃、一度は撃退されるも再び攻め寄せ、3月に昌綱を降伏させた。しかし厩橋城代を務める上杉の直臣・北条高広までもが北条に通じて謀反を起こす。4月、高広を破り、厩橋城を奪還。上野における上杉方の拠点を再び手中にして劣勢の挽回を図る。輝虎は上野・武蔵・常陸・下野・下総などで転戦するも、関東における領土は主に東上野にとどまった(ただし、謙信没時、上野・下野・常陸の豪族の一部は上杉方)(唐沢山城の戦い)。

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(1.6.第四次川中島の戦いと北条の反撃)
[6]次ページ
(1.8.越中への進出)
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出典:Wikipedia
2020/02/13 11:02
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