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上杉謙信
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1.生涯
1.1.出生から初陣まで
享禄3年(1530年)1月21日[2]越後守護代長尾為景[3](三条長尾家)の四男(または次男、三男とも[3]虎千代として春日山城に生まれる。母は同じく越後栖吉城主・長尾房景(古志長尾家)の娘・虎御前。幼名の虎千代は庚寅年生まれのために名づけられた[4][3][5]。主君・上杉定実から見て「妻の甥」であり「娘婿」にあたる。当時の越後国は内乱が激しく、下剋上の時代にあって父・為景は戦を繰り返していた。越後守護・上杉房能を自害に追い込み、次いで関東管領上杉顕定長森原の戦いで討ち取った。次の守護・上杉定実を傀儡化して勢威を振るったものの、越後国を平定するには至らなかった。

虎千代誕生直後の享禄3年(1530年)10月には上条城主・上杉定憲が旧上杉家勢力を糾合し、為景に反旗を翻す。この兵乱に阿賀野川以北に割拠する揚北衆らだけでなく、同族の長尾一族である上田長尾家当主・長尾房長までもが呼応した。越後長尾家は、蒲原郡三条を所領し府内に居住した三条(府内)長尾家、古志郡を根拠地とする古志長尾家、魚沼郡上田庄を地盤とする上田長尾家の三家に分かれて守護代の地位を争っていた。しかしやがて三条長尾家が守護代職を独占するようになる。上田長尾房長はそれに不満を抱いて、定憲の兵乱に味方したのであった。為景は三分一原の戦いで勝利するも、上田長尾家との抗争は以後も続き、次代の上田長尾家当主・長尾政景の謀反や御館の乱へと発展する。

天文5年(1536年)8月に為景は隠居し[6]、虎千代の兄・晴景家督を継いだ[6]。虎千代は城下の林泉寺入門[6]住職天室光育の教えを受けたとされる[4][7]。実父に疎んじられていたため、為景から避けられる形で寺に入れられたとされている。

武勇の遊戯を嗜み、左右の人を驚嘆させた。また好んで、一間四方の城郭模型で遊んでいた[8][7]。後年、景勝がこの模型を武田勝頼の嫡男信勝に贈っている[8]

天文11年(1542年)12月、為景は病没したが、敵対勢力が春日山城に迫ったため、虎千代は甲冑を着け、剣を持って亡父の柩を護送した[9][10][11]。兄・晴景に越後国をまとめる才覚はなく、守護・上杉定実が復権し、上田長尾家、上杉定憲、揚北衆らの守護派が主流派となって国政を牛耳る勢いであった。

天文12年(1543年)8月15日、虎千代は元服して長尾景虎と名乗り、9月には晴景の命を受け、古志郡司として春日山城を出立して三条城、次いで栃尾城に入る[12]。その目的は中郡(なかごおり)の反守護代勢力を討平した上で長尾家領を統治し、さらに下郡(しもごおり)の揚北衆を制圧することであった。

当時、越後では守護・上杉定実が伊達稙宗の子・時宗丸(伊達実元)を婿養子に迎える件で内乱が起こっており、越後の国人衆も養子縁組に賛成派と反対派に二分されていたが、兄の晴景は病弱なこともあって内紛を治めることはできなかった。

景虎が元服した翌年の天文13年(1544年)春、晴景を侮って越後の豪族が謀反を起こした。15歳の景虎を若輩と軽んじた近辺の豪族は栃尾城に攻めよせた。しかし景虎は少数の城兵を二手に分け、一隊に傘松に陣を張る敵本陣の背後を急襲させた。混乱する敵軍に対し、さらに城内から本隊を突撃させることで壊滅させることに成功。謀反を鎮圧することで初陣を飾った(栃尾城の戦い)。

[6]次ページ
(1.2.家督相続・越後統一)
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出典:Wikipedia
2020/02/13 11:02
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