小渕恵三
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2.経歴
2.3.「平成おじさん」から首相へ
官房長官時代の1989年1月7日昭和天皇崩御に伴い皇太子明仁親王が践祚。改元にあたり、元号法1979年〈昭和54年〉成立)に基づいて選定、閣議決定された後、総理大臣官邸(現:総理大臣公邸)での記者会見で「新しい元号は『平成』であります」と新元号を公表した。64年も続いた[5]史上最長の元号「昭和」に替わる新元号の発表は国民的な注目を集めていたこともあり、小渕は「平成おじさん」として広く知られるようになった。小渕が「平成」と書かれた色紙(河東純一書)の収められた額を掲げるシーンは、昭和から平成への時代変遷を象徴する映像、写真としてその後も多く利用されている。また、2019年5月1日令和改元前後にも、再び話題となった。

昭和天皇崩御に伴い官房長官として大喪の礼などの重要課題を取り仕切った。しかし、官房長官に就任してすぐの閣僚名簿の発表時に堀内俊夫環境庁長官の名前を呼び忘れるなど、発言の訂正が多く「訂正長官」と揶揄されることもあった。

1991年(平成3年)4月、当時自民党幹事長だった小沢一郎東京都知事選挙に際し、NHK論説主幹だった磯村尚徳を強引に担ぎ出したものの、自民党都連は小沢に反発し現職の鈴木俊一を推すという分裂選挙を引き起こし、結局鈴木が完勝。小沢が引責辞任したため自由民主党幹事長に就任。このとき、金丸は小渕幹事長就任の経緯について「ファースト・インプレッションだ」と語った。

1992年(平成4年)10月、竹下派(経世会)会長の金丸信東京佐川急便事件で議員辞職に追い込まれると、金丸の後継をめぐって小沢一郎と反小沢派の対立が激化。小沢派が推す羽田孜と、反小沢派が推す小渕との間で後継会長の座が争われた。

激しい権力闘争の末、最後は竹下の後ろ盾を得ていた小渕が、半ば強引に後継の派閥領袖と決まった。しかし小沢、羽田らは反発して改革フォーラム21(羽田・小沢派)を旗揚げし経世会(小渕派)は分裂。1993年(平成5年)、羽田らは自民党を離党して新生党を結成した。

その後、1994年(平成6年)に自民党副総裁に就任したものの、党務に従事したため、重要閣僚のポストには無縁で埋もれかけた。

1995年(平成7年)、自由民主党群馬県支部連合会の会長選挙に際し、衆院選での小選挙区の候補者選考をめぐって小渕に不満を持っていた中曽根康弘が小渕の県連会長続投に異議を唱え、それに同調した福田康夫らにより小渕は自民党群馬県連会長の座を退任に追い込まれた(後任は尾身幸次元経済企画庁長官)。群馬県では「小渕の政治生命もこれで終わり」という声がもっぱらであった。

1996年(平成8年)1月村山富市首相の辞任に伴い、小渕派の橋本龍太郎が内閣総理大臣に就任。小渕派会長の小渕は政権への意欲を示したものの、野中広務らの説得により、現実的判断をとって橋本支援に転換。橋本の対抗馬であった河野洋平とソリの合わなかった加藤紘一に党幹事長のポストを渡すなどの工作を行った。

また、同年10月の第2次橋本内閣の発足に当たって、小渕の衆議院議長就任の話が持ち上がる。小渕自身、一時は意欲を示したが、59歳でいわゆる「上がりポスト」である議長に就けば、将来の首相の芽がなくなると地元の支持者たちが猛反対し、側近の額賀福志郎青木幹雄綿貫民輔らや秘書の古川俊隆らも反対であったため、就任を固辞した。小渕の名前が消えた後、議長には竹下に近い伊藤宗一郎が就任した。

1997年(平成9年)9月第2次橋本内閣改造内閣外務大臣に就任し表舞台に復帰。対人地雷全面禁止条約(オタワ条約)を外務省の強い反対を押し切って締結した。この事業に関しては政敵の土井たか子菅直人からも高い評価を受けるなどし、外相としての評価を高めたことが、次期首相就任へとつながっていった。

1998年(平成10年)7月30日第18回参議院議員通常選挙での敗北の責任をとって辞任した橋本の後継首相になる。しかし、橋本と同派閥の小渕の登板に当初は各方面から批判を浴び、低支持率からのスタートとなった(首相としての活動は別記)。

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出典:Wikipedia
2019/11/10 19:32
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